もぐらタタキ経営は経営者が無能な証拠

会社運営に於いて日々、大なり小なり問題課題、時には事件事故が発生する。

生じた内容程度により、誰が対処し解決するかは様々だが、役員がそれらに奔走してばかりで、それが役員として重要な役割と思っているなら、大きな誤解である。

 

役員は経営者の一員であるから、経営者として会社の制度やルールをつくり、維持していく事が役割である。

役員が考えねばならないのは、生じる多種多様な問題課題の「本質的な原因」である。

「何故、この様な問題課題が生じるのか?」を深く熟考し、原因追求し、それを解決しなければならない。

要は“根”を見つけ出し、それを“断ち切る”のだ。

で、なければ、いつまで経っても、“根”が同じで生じる問題課題の対処解決に奔走し、最悪はそれで「忙しい!」と言ったり、部下に向かって、「問題を起こすな!」と自分の無能さに気付かず、他人に責任転嫁する事になる。

この状態を“もぐらタタキ”と言う。

 

一見、解決したと捉えている事は、再度、類似する事象が生じれば、それは沈静化したか先延ばしにした、または有耶無耶にした、という事になる。要は「対処しただけ」という事。

繰り返すが、生じた問題課題の「本質的な原因」を捉えずして「解決」とは言わない。

「解決能力」とは、先ず「本質的な原因」追究できる能力が求められる。

 

 

 

長年同一業種で働いたからといって“プロ”とは限らない

「この道30年です」、「ずっと〇〇畑でやってます」、なので、「プロです!」と主張する人がいる。

その業種に従事していない人と比較すれば、長年同一業種に従事している人は当然、知識や技術は上回っているだろう。

しかし、それを指して“プロ”と言うには無理がある。

 

同一業種内で比較するとどうだろうか?

その上でもトップレベルの知識や技術を有しているなら“プロ”と呼べるかもしれないが、正確には“スペシャリスト”である。

 

“プロ(フェッショナル)”と“スペシャリスト”の違いは、私の定義上、“プロフェッショナル”とは、「金銭を得て与えられた任務・役割を担い、然るべき結果を出す人」。“スペシャリスト”とは、「ある事柄に圧倒的に精通した知識や技術を有している人」である。

更に、“プロフェッショナル”は時として“スペシャリスト”を含むが、“スペシャリスト”は“プロフェッショナル”では決してない。

 

長年同一業種を経験しているからと言って、「圧倒的に精通した知識や技術を有している人」になれるだろうか?

本人自ら、自発的に自らの業種に関する知識や技術、情報を、同一業種のライバル以上に得ようと努力せねば身につくわけがない。

平たく言うと、同業者から一目置かれる状態になっていれば“スペシャリスト”と呼べるであろう。

 

先述通り、“プロ”とは、「然るべき結果を出す人」なので、「然るべき結果」の程度は「報酬」によって示される。

敢えて言うと、給与所得者は「給与」という「報酬」を得ているので“プロフェッショナル”と言える。しかし、その額に高低があるという事は「然るべき結果を出せる能力の高低」と言える。

どの程度の“プロ”なのか?ピンキリである。

 

冒頭の「この道30年です」だから“プロ”です!は、長年経験しているという「量」は事実としても、「質」は必ずしも比例しないので“プロフェッショナル”とも“スペシャリスト”共に、言うには無理があるのである。

誤った役職付与は会社も本人もダメにする

「凄くがんばってるから」、「更にやる気を出してもらおう!」、「立場が人を育てるから」ナドナドの理由で社長が張り切って役職を付与するのは会社にも当人にとってもいいカンフル剤であることは間違いない。

しかし、誤って付与すれば、真逆の悪影響になる。

 

社長は付与される人の能力や性格を適切に把握せず、一方的な思い込みで判断と期待をして付与してしまう。

最悪は、周囲が付与される人の能力や性格を認めず、むしろダメ出しをしている場合。

周囲はシラケムード、付与された本人への風当たりは強く、本人もとばっちり状態でいきなりアゲンストのスタートとなる。

痛々しく哀れなのは、そもそも実力が無いのに役職名を付与されたことで、その肩書きを誤解して浅知恵で肩書きに相応しい言動を行おうとする人。要は、口ばかりで偉そうにしてロクに働かない人なのだ。

 

付与した社長は自分は正しい判断をしたと思い込んでいるので、本人に良かれと思って掛ける言葉は本人にはプレッシャーの上塗りにしかならず悪循環。

周囲はシラケているので、本人に手を差し伸べようともせず、社長への懐疑心も芽生え始め、自己中思考に走り、必要な協調性や連帯感からは遠ざかっていく。

 

しまいには、当人が「辞めます」というか、社長がキレて本人を公開処刑。

それを見た周囲が、「それ、見たことか」と嘲笑する。

 

社長だからと言って、人の能力を適切に見分ける能力が高いとは限らない。

社長だからと言って、人のやる気を引き出すのが上手とは限らない。

社長だからと言って、組織作りが出来るとは限らない。

 

中小企業にも関わらず、社員数も大して多くないにも関わらず、役職名がついてる人が多い会社は要注意!

 

 

社員が定着しない会社は社長が原因

「根気・根性が無い」、「能力が無かった」、「うちらには付いてこれなかった」、「仕方がない」ナドナド、社員が辞めるという事態が頻発し、定着しない会社の社長はその原因を「元社員のせい」にする。

「俺は常日頃、社員とコミュニケーション取れていて、言いたい事を言い合える関係だ」と言っている社長に限って、社員は全く、そう思っていない。

ましてや、社長がお喋りで話し好きなら、もっと始末が悪い。

何故なら、一方的にマシンガントークで相手に話す余地も渡さず、独演会状態を作り上げるからだ。

 

中小企業の社員は“社長”と言う肩書きに萎縮しがちである。

“社長”という肩書だけで、その人を「すごい人」、「偉い人」、「雲の上の人」、「立派な人」、「能力のある人」ナドナド、実態を的確に捉えずして、勝手に一般論を当てはめて崇め奉り、距離を置く。

社員のこんな心理を知らず見抜けない社長は、先述の「コミュニケーションできている」と錯誤のまま関係良好と自負する。

 

社員間で有能と認められていた人(「マトモ」や「優秀」と言われる人)が辞めるとき、こんな心理が働き、「本音・本心」を言わず、“立つ鳥跡を濁さず”で「自分が原因・問題」を理由に辞めていく。

違う言い方をすると、マトモな社員は社長の「人」としての愚かさや無能さに呆れたり、見切りをつけて辞めていくのだが、辞めるだけに、ワザワザ親切にそんなことを指摘し気付かせることなく辞めていくのだ。

 

社員が定着しない。それは「業種が原因」、「時代が変わった」、「今どきの子は・・・」と言っている社長は社長自身が自分を的確に捉えておらず、自分の欠点・弱点を認識していない証拠。

働き方改革は休業日を設ける事から

コンビニエンスストア・一部ファストフード・ファミリーレストランの24時間営業。

商業施設・スーパーマーケット・一般飲食店の年中無休。

レジャー型サービス業の24時間営業。

百貨店は近年正月営業を見直し。

 

日本のコンビニエンスストア開業は1973年と言われているから、足掛け約45年、今日に至るまで24時間365日営業が小売店や飲食店の“当たり前”になってきた。

その背景には、2010年前後の最大値まで人口は増加傾向なので消費は理論上比例して増加傾向。更に、それまでに存在していなかった24時間365日営業と言う利便性が鶏と卵の関係の如く、人々の生活様式変化にマッチした。

この利便性に慣れてしまった消費者はこれが“当たり前”と思い込んで今日に至る。

 

2010年前後以降、人口数は下落に転じ、少子高齢化状態突入。それに伴い労働人口減少。一方で各業種での異常なまでの出店合戦による店舗の乱立、そして供給多過による淘汰。

明らかに人口数及びその年齢構成を背景とする市場性は変化した。

 

「働き方改革」は雇用する店や会社が雇用環境・条件をより良く改善する、店や会社側だけが取り組む、といった面で捉えられがちではないだろうか?

 

雇用者も労働者も消費者である。

消費者として、従来の“当たり前”を見直し、少々不便と感じる社会を受け入れる前提なしには「働き方改革」は実現しないと思う。

私に言わせれば、「働き方改革」ではなく、「生活の仕方改革」と銘打たなければ、国民一丸となり目指す状態に至らないのでは?と強く思う。

 

店が開いていなければ前もって購入するなり段取っておけばいいだろうし、違った時間の過ごし方を考えればいいだろう。

「生活の仕方改革」とは「生活の仕方」を“考え直す”という事。

“不便”、“不自由”はそれを解消するため“考える”チャンスが来たという事。

“考える”事無に人間は進化・変化しないはず。

 

 

社長だからと言って経営能力があるとは限らない

“社長”と聞けば、「すごい」、「偉い」、「立派」、「お金持ち」、「遠い存在」等々の形容詞が出てくるかと思う。

人は“社長”と名乗る人に一定な思い込みがあるようだ。

 

表題の通り、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」のである。

私の経験値では、多くの社長が中小企業の創業者であるが、それらの方々の共通項は“トップセールスパーソン”という事。

言い換えれば、一組織人だとすれば、「他人に圧倒的な差をつけるセールス能力を持った人」である。

 

なので、中小企業の社長の多くは走り歩いている。

正確に言うと、「創業期は」である。

違う言い方をすると、創業10年以上経過しているにも関わらず、社長自らが走り歩いている状態の会社とは、社長が自分の会社組織をつくれずに、創業期のまま今に至っている、と言える。

これが、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」という事である。

 

セールス能力と経営能力は異なる。

セールス能力は、「話し上手」、「相手心理を見抜く力が長けている」、「交渉力がある」、「頭の回転が速い」、「気が利く」等の言葉が問われる。

経営能力は、「全体を見通す能力がある」、「我慢強い」、「継続力がある」、「謙虚である」、「感情を抑えることが出来る」等の言葉が問われる。

セールス能力と経営能力の根本的な違いは、その能力を前者はお客様(社外)に向け、用い、後者は社員(社内)に向け、用いるのである。

なので、会社に居る時間が短かったり、役員や社員と話す時間より社外の人と話す時間が多い社長の会社は、殆ど多くの場合、「社内がガタガタ落ち着かない」、「いつも同じ様な内容でトラブルが起きる」、「社員定着率が悪い」と言った事象が起きている。

要は、会社をつくり切れていないのである。

自分の会社は役員つくるのではなく、社員がつくるのでもない。社長自身がつくる以外ない。

にも関わらず、「売り上げが無くなったら会社はつぶれる!」と言い張り、ひたすらトップセールスに走る。

 

繰り返しになるが、業歴10年以上経過し、いつも新しいことを行うも数年間売り上げも利益も大きく増加も現象もしない、しかし、社員は定着せず常に入れ替わりがあり、いつも同じような事ばかり起きている、と言った会社は社長に経営能力が無いと判断していい。

以前、記したように、「人を肩書で判断してはいけない」のである。

 

”気付く”という能力は先天性

「床に落ちているゴミに気付く」

「お客様の要望に気付く」

「相手が言わんとすることを気付く」

「自分の間違いに気付く」

「場の空気に気付く」

 

“仕事が出来る人”、“サービス精神が旺盛な人”、“頭がいい人”等と形容される人の共通項の一つとして、「気付く」という能力が長けていると思う。

よく質問される事の一つがこれで、「どうやったら気付けるようになりますか?」

それに対する私の回答は、「“気付く”という能力は先天性なので無理です」

そうすると、「えっ!?」

 

多くの事に気付ける人にとっては当たり前に自分が出来る事なので、出来ない人を不思議に思う。無理もない。

しかし、この“気付く”をトレーニングするには四六時中強く“気付くべきことを意識し続ける”という事が必要となる。

こんな事、実現可能と思われるでしょうか?

 

厳密に言うと、無意識の上で“気付く”という事が先天性の能力。

だから、どうしようもない。

性格の違いと同様の理解をし、相手に自分同様の“気付き”を求めることなく、相手と接し動かしていく他ない。

部下の相談相手になっていますか?

ダメな上司は部下に、まるで自分の所有物の様に「命令」、「指図」する。

ダメな上司は部下に、図星の指摘をされたとき「理不尽な回答」をする。

ダメな上司は部下に、「勉強しろ」と言うばかりで自分はしない。

ダメな上司は部下に、「考える余地」を与えず、自分の思いのままに物事をやらせようとする。

ダメな上司は部下に、「いつでも何でも言ってこい」と言う。

ダメな上司は部下に、口では「並列」を言うが、実際は「上下」を崩さない。

ダメな上司は部下に、「上司面」する。

ダメな上司は部下に、「指摘」ばかりして、解決策は、「それを考えるのがお前の仕事」と突き放す。

ダメな上司は部下に、自分より上役にへつらう。

きり無く出てくるダメな上司の言動。

 

重要な事は、日常業務上に於いて常に育成観点を持ち、部下の失敗を自らがかぶり責任を取る覚悟を持つこと。

その為に相互に信頼関係を構築する努力が必要で、それには「素直」、「正直」という“人間性”の本質が問われる。

部下から、公私問わず「悩み」や「迷い」を相談されるという事象が起きれば、それらが醸成されているという証拠と言える。

 

部下や社員は自分を映す鏡

社員や部下に対して呆れたり、嘆いたりする事が日常茶飯事ならば、それはリーダーであるあなた自身が未熟なために、そうなっていると認識すべきである。

中小企業で良く聞くリーダーのセリフは「そんな事も知らないのか!?」、「そんな事当たり前だろ!?」

リーダーのあなたは、“そんな事を知っている”、“そんな事当たり前”だからこそ、同僚よりも能力が秀でていると認められ、リーダーに抜擢されているのではないだろうか?

あなたの部下や社員はあなたと一緒に働くまで、どんな環境でどんな教育を受け、どんな事を学んできたのか把握しているだろうか?把握せずとも、あなたと同一であると考えられるのだろうか?

あなたの部下や社員の不出来はあなたの不出来。

“大人なんだから”、“社会人なんだから”、“給料もらっているのだから”、言われなくても何事も自発的に行うのが当然でしょ!?と考える事は間違えではないが、大企業であれ、中小企業であれ、このセリフはリーダーの定型句。

この定型句が消えないという事は、あなたがリーダーとしての「育てる」、「気付かせる」という事を行っていない現れと言える。

彼ら彼女はあなたではない。あなたの当たり前に知っている事、出来る事、する事は、彼ら彼女にとって同じではない。逆に言うと、彼ら彼女がやっている事をあなたは容易に出来たり、知っていたり、結果を出せるから、あなたはリーダーなのである。言い方を変えると、誰もが有能ではない、誰もがリーダーになれるのではない。

リーダーは部下や社員は勝手に育たない、気付かない、という認識を以て、彼ら彼女らと日々接し、一人一人の能力個性を見極め、一人一人が進化成長する方向付けをしたり、やる気を起こさせることが重要な役割の一つである。更に、一人一人は決して均一にはならないことも認識しておかねばならない。

 

 

義務と権利を明確化することが企業への第一歩

私は「企業」の反対語を「家業」と定義する。

これは辞書的な意味としては間違えているのは承知であるが、一般的な言葉の感覚的概念からして、こう定義付けるのがわかりやすいと思うことから、こうしている。これを前提に述べていきたい。

「企業」という言葉を聞けば、売り上げ規模や店舗数、事業所数など、規模が大きい会社の事を指すように認識されていると思う。逆に「家業」は家族や親近者で事業を行い、その規模が小さい状態を指すように認識されていると思う。これまた感覚的であり、辞書で調べると全く異なる内容が書かれている。

言いたいことは、規模の大小が「企業」と「家業」の違いではない、という事。私の定義は「仕組みの有無」が「企業」か「家業」の違いである。

その「仕組み」とは、多種多様なルールや基準である。パソコンで行われる受発注や勤怠、社内ネットワーク、売上管理などのシステムと言われる物も同様で、現場レベルではマニュアルも「仕組み」と言える。

これらの「仕組み」があるという事は、“属人的”ではない状態を作り出していると言える。但し、業務全てが「仕組み」になる訳はないので、出来るだけ多くの事柄が仕組みになっていれば「企業」と言えるのである。

逆に「家業」は殆ど多くを“人海戦術”や“手作業”=アナログで行っている状態が見受けられる。誤解してはいけないのは、これらをシステムに変える事だけが「仕組み」とは言えないのである。

「家業」にとって、最も欠落している「仕組み」は会社(経営者)と社員(従業員)にとっての「義務と権利」の明確化である。

具体的にいうと、社員の権利は会社の義務と言え、一方、社員の義務は会社の権利と言え、共に表裏一体である。

社員の権利として代表的なのが、「有給制度」や「給与体系」と思いがちだが、実は「労働基準法」。一方、会社の権利として代表的なのが「就業規則」。

「就業規則」とは、先述の「有給制度」や「給与体系」を含むもの。これは「労働基準法」に則った上で、それぞれの会社が独自に定めるルール・基準なので、会社の権利となる。

ありがちなのは、社員にとって最も身近で関心のあることを優先的に整備し、結果的に会社は“社員の権利を明確にした”と恩着せがましく言うに留まり、“社員がすべき事(=義務)”を明確にしていない状態。

では、“社員がすべき事”とは一体何か?

分かり易く言うと、業務上行う動作・作業・行為であり、社員が身に付けるべき「スキル(技術・技能)」と「ナレッジ(知識・情報)」である。

これらを「マニュアル」や「テキスト」と呼ばれる物に“書き換える”必要があり、書き換えれば「仕組み」と言える状態になる。

例えば、一般社員から1ランク昇格すると主任になるとして、主任に必要な「スキル」や「ナレッジ」は何か?が明確になっているという事。その為には、実務(動作)テストや筆記テスト等で、その有無を確認する必要がある。テストにしている状態こそ「仕組み」である。

そもそも、入社試験など無く、面接を受ければ容易に入社が可能な業種や会社では社員とPA(パート・アルバイト)の区別など全くと言っていいほど無いので、一般社員の定義が存在せず、とてもややこしく思いがちであるが、所謂、入社試験と言うものは会社が求める・必要とする社員としての「スキル」や「ナレッジ」の最低限度を定めることを意味するのである。そして、定める事も、「仕組み」と言える。

「仕組み」と言うものは、言い換えると「手間暇のかかる」、「頭をつかう」、更に、それは「書類化」する、イコール「可視化する」という事である。平たく言うと、とても“メンドウクサイ”事をしなければ、組み立てられない事なのである。

“とてもメンドウクサイ”だけに中小企業は「仕組み」が少ない。逆にいうと“属人的”で多くを人の記憶や判断に頼っている。要はメンドウクサイ事を避けたり、先延ばしにしているのである。

目先の“メンドウクサイ”によって、社員との関係がギクシャクしていないだろうか?離職率は高くなっていないだろうか?優秀な人材は辞めて行ってはいないだろうか?会社は着実に成長しているのだろうか?トラブルやクレームは大抵同じような内容ではないだろうか?

経営者が自らの立場を誤解し、「“メンドウクサイ”は社員が行う事」と思っていたら、それが会社の最大の課題!

経営者は経営者として“メンドウクサイ”事に取り組まねばならない!それは決して社員が行うのではなく、行える訳もない。

経営者はそれ相当の能力を有しているからこそ、経営者であるはずなので、万一、“メンドウクサイ”事に向き合わなかったり、結論を見いだせないようであれば、「経営者の能力ナシ」と言えるので、自発的に降りるべき、または指名した人は即座に適当な人物に変更すべきである。

もう少しいうと、経営者=役員であるにもかかわらず、日々行っている内容が「実務」であるならば、それは「名ばかり経営者」と言う。経営者であるならば、実務を自らが行わなくてもいい状態にする能力(=物理的人員面と金銭面の両面で)が当然に必要である。それが出来ないなら、それも「名ばかり経営者」と言う。

「義務」や「権利」イコール、各種制度や基準やルール。細かい点で言うと業務(実務)マニュアルから各種書式設定など、多種多様、大小問わず、自ら書類化するものもあれば、士業と言われる各種専門家と手を組んで作成する場合もあり、具体的指示をして社員に書類化させることが経営者の経営と言う重要な仕事の一つである。(敢えて言っておくが、士業にせよ社員にせよ、「やっておけ」というのは大誤解である。経営者が主体的に考えたことを始点に始めるのが当然である)

「義務」と「権利」が明確になるという事は、「仕組み」が確立したという事になる。そうすれば、これまで時間や頭を取られていたことが嘘のようにスッキリと減り、生産的な将来的な事項に集中したり時間を費やすことが可能となるのである。

逆を言えば、何年も何度も同じような事を繰り返したり悩んだりしているという事は、時間だけ過ぎていて、本質的な事は何も解決されておらず、変わっていない証拠と言える。

それが嫌なら、経営者は経営者としてしなければならない“メンドウクサイ”「義務」と「権利」を出来るだけ多く明確化すればいいのである。

「家業」を「企業」にするのか、出来るのかは社員ではなく、経営者の能力にかかっている。今一度言うが「企業」とは「仕組み」が存在する会社の事を指す。血縁親族以外の人が、それ以上多く存在していたり、規模が大きくなって行くと「家業」の実態では立ち行かなくなるのが必然。

経営者の役割を果たせぬ能力の人が経営者になっているなら、その会社は必ず崩壊するか、良くて一定規模どまりで恒常的に同一の課題を抱えて疲弊状態である。

脱却する方法は2つ。1つは経営者を交代させる。1つは経営者の勉強を行い、果たすべき役割を果たせばよい。至極、単純な事である。

最後に当然のことを言えば、会社を良くするも悪くするも経営者。会社を大きくするも小さくするも経営者。社員を幸せにするも不幸にするも経営者。