部下や社員は自分を映す鏡

社員や部下に対して呆れたり、嘆いたりする事が日常茶飯事ならば、それはリーダーであるあなた自身が未熟なために、そうなっていると認識すべきである。

中小企業で良く聞くリーダーのセリフは「そんな事も知らないのか!?」、「そんな事当たり前だろ!?」

リーダーのあなたは、“そんな事を知っている”、“そんな事当たり前”だからこそ、同僚よりも能力が秀でていると認められ、リーダーに抜擢されているのではないだろうか?

あなたの部下や社員はあなたと一緒に働くまで、どんな環境でどんな教育を受け、どんな事を学んできたのか把握しているだろうか?把握せずとも、あなたと同一であると考えられるのだろうか?

あなたの部下や社員の不出来はあなたの不出来。

“大人なんだから”、“社会人なんだから”、“給料もらっているのだから”、言われなくても何事も自発的に行うのが当然でしょ!?と考える事は間違えではないが、大企業であれ、中小企業であれ、このセリフはリーダーの定型句。

この定型句が消えないという事は、あなたがリーダーとしての「育てる」、「気付かせる」という事を行っていない現れと言える。

彼ら彼女はあなたではない。あなたの当たり前に知っている事、出来る事、する事は、彼ら彼女にとって同じではない。逆に言うと、彼ら彼女がやっている事をあなたは容易に出来たり、知っていたり、結果を出せるから、あなたはリーダーなのである。言い方を変えると、誰もが有能ではない、誰もがリーダーになれるのではない。

リーダーは部下や社員は勝手に育たない、気付かない、という認識を以て、彼ら彼女らと日々接し、一人一人の能力個性を見極め、一人一人が進化成長する方向付けをしたり、やる気を起こさせることが重要な役割の一つである。更に、一人一人は決して均一にはならないことも認識しておかねばならない。

 

 

義務と権利を明確化することが企業への第一歩

私は「企業」の反対語を「家業」と定義する。

これは辞書的な意味としては間違えているのは承知であるが、一般的な言葉の感覚的概念からして、こう定義付けるのがわかりやすいと思うことから、こうしている。これを前提に述べていきたい。

「企業」という言葉を聞けば、売り上げ規模や店舗数、事業所数など、規模が大きい会社の事を指すように認識されていると思う。逆に「家業」は家族や親近者で事業を行い、その規模が小さい状態を指すように認識されていると思う。これまた感覚的であり、辞書で調べると全く異なる内容が書かれている。

言いたいことは、規模の大小が「企業」と「家業」の違いではない、という事。私の定義は「仕組みの有無」が「企業」か「家業」の違いである。

その「仕組み」とは、多種多様なルールや基準である。パソコンで行われる受発注や勤怠、社内ネットワーク、売上管理などのシステムと言われる物も同様で、現場レベルではマニュアルも「仕組み」と言える。

これらの「仕組み」があるという事は、“属人的”ではない状態を作り出していると言える。但し、業務全てが「仕組み」になる訳はないので、出来るだけ多くの事柄が仕組みになっていれば「企業」と言えるのである。

逆に「家業」は殆ど多くを“人海戦術”や“手作業”=アナログで行っている状態が見受けられる。誤解してはいけないのは、これらをシステムに変える事だけが「仕組み」とは言えないのである。

「家業」にとって、最も欠落している「仕組み」は会社(経営者)と社員(従業員)にとっての「義務と権利」の明確化である。

具体的にいうと、社員の権利は会社の義務と言え、一方、社員の義務は会社の権利と言え、共に表裏一体である。

社員の権利として代表的なのが、「有給制度」や「給与体系」と思いがちだが、実は「労働基準法」。一方、会社の権利として代表的なのが「就業規則」。

「就業規則」とは、先述の「有給制度」や「給与体系」を含むもの。これは「労働基準法」に則った上で、それぞれの会社が独自に定めるルール・基準なので、会社の権利となる。

ありがちなのは、社員にとって最も身近で関心のあることを優先的に整備し、結果的に会社は“社員の権利を明確にした”と恩着せがましく言うに留まり、“社員がすべき事(=義務)”を明確にしていない状態。

では、“社員がすべき事”とは一体何か?

分かり易く言うと、業務上行う動作・作業・行為であり、社員が身に付けるべき「スキル(技術・技能)」と「ナレッジ(知識・情報)」である。

これらを「マニュアル」や「テキスト」と呼ばれる物に“書き換える”必要があり、書き換えれば「仕組み」と言える状態になる。

例えば、一般社員から1ランク昇格すると主任になるとして、主任に必要な「スキル」や「ナレッジ」は何か?が明確になっているという事。その為には、実務(動作)テストや筆記テスト等で、その有無を確認する必要がある。テストにしている状態こそ「仕組み」である。

そもそも、入社試験など無く、面接を受ければ容易に入社が可能な業種や会社では社員とPA(パート・アルバイト)の区別など全くと言っていいほど無いので、一般社員の定義が存在せず、とてもややこしく思いがちであるが、所謂、入社試験と言うものは会社が求める・必要とする社員としての「スキル」や「ナレッジ」の最低限度を定めることを意味するのである。そして、定める事も、「仕組み」と言える。

「仕組み」と言うものは、言い換えると「手間暇のかかる」、「頭をつかう」、更に、それは「書類化」する、イコール「可視化する」という事である。平たく言うと、とても“メンドウクサイ”事をしなければ、組み立てられない事なのである。

“とてもメンドウクサイ”だけに中小企業は「仕組み」が少ない。逆にいうと“属人的”で多くを人の記憶や判断に頼っている。要はメンドウクサイ事を避けたり、先延ばしにしているのである。

目先の“メンドウクサイ”によって、社員との関係がギクシャクしていないだろうか?離職率は高くなっていないだろうか?優秀な人材は辞めて行ってはいないだろうか?会社は着実に成長しているのだろうか?トラブルやクレームは大抵同じような内容ではないだろうか?

経営者が自らの立場を誤解し、「“メンドウクサイ”は社員が行う事」と思っていたら、それが会社の最大の課題!

経営者は経営者として“メンドウクサイ”事に取り組まねばならない!それは決して社員が行うのではなく、行える訳もない。

経営者はそれ相当の能力を有しているからこそ、経営者であるはずなので、万一、“メンドウクサイ”事に向き合わなかったり、結論を見いだせないようであれば、「経営者の能力ナシ」と言えるので、自発的に降りるべき、または指名した人は即座に適当な人物に変更すべきである。

もう少しいうと、経営者=役員であるにもかかわらず、日々行っている内容が「実務」であるならば、それは「名ばかり経営者」と言う。経営者であるならば、実務を自らが行わなくてもいい状態にする能力(=物理的人員面と金銭面の両面で)が当然に必要である。それが出来ないなら、それも「名ばかり経営者」と言う。

「義務」や「権利」イコール、各種制度や基準やルール。細かい点で言うと業務(実務)マニュアルから各種書式設定など、多種多様、大小問わず、自ら書類化するものもあれば、士業と言われる各種専門家と手を組んで作成する場合もあり、具体的指示をして社員に書類化させることが経営者の経営と言う重要な仕事の一つである。(敢えて言っておくが、士業にせよ社員にせよ、「やっておけ」というのは大誤解である。経営者が主体的に考えたことを始点に始めるのが当然である)

「義務」と「権利」が明確になるという事は、「仕組み」が確立したという事になる。そうすれば、これまで時間や頭を取られていたことが嘘のようにスッキリと減り、生産的な将来的な事項に集中したり時間を費やすことが可能となるのである。

逆を言えば、何年も何度も同じような事を繰り返したり悩んだりしているという事は、時間だけ過ぎていて、本質的な事は何も解決されておらず、変わっていない証拠と言える。

それが嫌なら、経営者は経営者としてしなければならない“メンドウクサイ”「義務」と「権利」を出来るだけ多く明確化すればいいのである。

「家業」を「企業」にするのか、出来るのかは社員ではなく、経営者の能力にかかっている。今一度言うが「企業」とは「仕組み」が存在する会社の事を指す。血縁親族以外の人が、それ以上多く存在していたり、規模が大きくなって行くと「家業」の実態では立ち行かなくなるのが必然。

経営者の役割を果たせぬ能力の人が経営者になっているなら、その会社は必ず崩壊するか、良くて一定規模どまりで恒常的に同一の課題を抱えて疲弊状態である。

脱却する方法は2つ。1つは経営者を交代させる。1つは経営者の勉強を行い、果たすべき役割を果たせばよい。至極、単純な事である。

最後に当然のことを言えば、会社を良くするも悪くするも経営者。会社を大きくするも小さくするも経営者。社員を幸せにするも不幸にするも経営者。

 

予定は自ら立てるもの

“予定を立てても突発的に起きる事が多いので立てられない”

“お客様の都合に合わせるので、こっち都合は立たない”

“そもそも予定を立てる意味がない”

ナドナド、「出来ない理由」や「したくない理由」を反論として聞くことがしばしばある。

そういった人や会社は引いて見てみると、万事“行き当たりバッタリ”状態で、毎日何だか忙しなく過ごしていて、あたかも“頑張ってやっている感”が蔓延しているが、冷静に見ると、単に追われているか、大したことのない事に奔走している、と言った状態に陥っている。

予定を立てる事は、ある種「自分や会社を拘束する」に似た感覚を覚える。

それ故、息苦しく感じたり、何とも言えない不自由を感じるのは、ある意味必然であるが、それによって、予定を立てないままいると、結果的に何も意図する結果には至らない。

予定を立てない人や会社で「予算」を立てても達成する事は稀で、各人の意識は上位者と大きな隔たりが生じるのが常々である。

これは、「予算」という定量的結果は数字なので、目にする事(可視化する事)は容易であり、正当性と必然性を強調しやすいので、上位者は自分の仕事をしているという自覚で立てる。

しかし、部下は日常的に数字のみならず色々な事を予定を立てて動く、考えるという習慣を身に付けていなければ、予算と言うものも、その一つとしてしか捉えないので、達成しようと口では言っても具体的に行動に転化する意識も方法も持ち合わせていない。

要は、普段からしていない事は出来る訳がない、と言う事。

予定を立てるという事と人生の生きる意味や目的を持つ、という事に相通じる。逆にいうと、一週間、一か月、一年間と言う予定を立てられない、立てない人は人生の生きる意味や目的を持っている訳はないと言える。

時間は自然の法則通り勝手に過ぎていく、言い換えると“流れている”。毎日を精一杯、励んで努めているつもりでも、実は“流されている”。

人や物事は自分の意志で以て、先に目指す結果や目的目標を定め、そして足元や目先を着実に自分の意志で進まねば容易に“流される”。

予定を立てると言う事は、“流されまい”とする自分自身の意志である。立てずに日々を過ごしているという事は、“流されるがまま”であって、自分の意志ではない。なので、自分の望む場所には決して辿り着けないのである。

行き先を決めて歩き出す事

「ゴールを設定する」、「目標を立てる」、「目的をハッキリさせる」等、よく言われる言葉であるが、このタイトルもそれらと全く同じことを言っている。

どの言葉も本質的な意味は、「行き先を決めずに出発すると、単に歩いているだけになったり、ペース配分を間違えたり、必要以上に時間が掛りすぎたり、方向を見失ったり、という状態に陥るので、そうならないように」という事である。

この事で最上位の考えは「人生」である。人それぞれ、何年生きるかわからないが、死ぬ時をゴールと言うならば、その時に辿り着きたい自分の胸の内も含めての状態を出来るだけ明確に描くという事。

次に「仕事生活」。会社員であれば定年が一つの大きな目途となるので、退職日に家族や同僚から、どんな状態で見送られたいのか?それ以上に、自分自身がその当日に、どんな胸の内で居たいのか?を出来るだけ明確に描くという事。

更に、経営者であれば、会社全体や担当する部署の短中長期それぞれの到達したい、定量的・定性的結果を出来るだけ明確に描くという事。

一案件やプロジェクトと呼ばれる大きな案件の場合でも、“求める結果”を定量的にも定性的にも出来るだけ明確に描くという事。

行き先が決まっているという事は、そこに辿り着く「順路」、「時間」、「距離」、「方法」が見えてくる。「順路」や「方法」は一通りではない事が多いだろう。

そうだとすれば、その組み合わせを考えて考えて、最善を考え抜かねばならない。まして、その道中が自分一人だけではなく、仲間や部下がいるならば、その人たちの事も考えるのがリーダーであれば“当然の役割”である。

一つアドバイスするならば、出発地点から行き先を考える事のみならず、逆に、行き先から出発地に戻ってくる事も考えると良い。そうする事で、全く違った考えを思いつくこともしばしば、それにより、より道中の全体図が明確になる=質が高まる事になる。

こうやって書くと、言っている事は当たり前すぎる事とわかるのだが、果たして本当に色々な事の「行き先」は明確なのだろうか?特に、期間が長くなる事=「人生」が最も不明確であることが多く見受けられる。

行き先のわからぬまま、「走れ!」と言われて短時間・短距離は走れても続く訳もない、走らずとも歩き始めても、いつ休憩していいのか?休憩時間はどれ位取れるのか?また歩き始めるにしても、どの位の距離を歩かねばならないのか?

あなた自身がそんな状態になっていないだろうか?あなたがリーダーであれば、あなたの部下はそんな心情でいるのではないだろうか?

 

完璧主義者ではなく全力主義者であれ

ある程度、私を知る人から「完璧主義者」と言われることがある。それに対し、必ず私は「全力主義者です」と答える。

私の感覚では、「完璧主義者」と形容されることは、殆どの場合、褒め言葉と言うよりも、皮肉や嫌味を込めている言葉として受け止める。

私は妥協や中途半端、いい加減、適当等に当てはまる事が嫌いである。そんなことから、言動がキツかったり、強かったり、冷たいと感じとられることがあるのだと自覚している。

そんな事から、「完璧主義者」と言われる所以があるのだろうが、万事、「全力主義」と以て言動がある。

こと、仕事に於いては、その時、その機会、その日の自分の持ち得る能力を最大限発揮し、“ベストを尽くす”という想いである。

後日、振り返れば、その日の事が未熟であったり、異なっていたり、間違えている場合もしばしばである。しかし、“ベストを尽くした”という自分の「納得感」があるので、決して「後悔」はない。

むしろ、自分の進化や変化、成長を認識するという考えに変えている。

「完璧主義」とは一個人だけの事であれば、それを追求し実現する事は可能であるだろう。しかし、それを組織や他人に持ち込んだり当てはめると反発は必至で、実現はおろか、何よりも自分自身が苛立つ最大の原因となり、組織や他人との関係性を大きく揺るがす事になる。

しかし、妥協すると言う答えに辿り着くのではない。

組織や他人それぞれの目的や目標、ゴールに辿り着くという事が最も重要である。そして、そこに辿り着くための「最大の努力を尽くす」という事を関わる人全てで行う事である。

逆に言うと、それぞれの最大を尽くすことを怠っているのであれば、それは指摘したり、叱るべきことである。但し、尽くすべき最善は画一的且つ統一的なものとは限らないという事を承知しておく必要がある。

この事は特にリーダーが認識しておかねば、大きなやる気が周囲から反感や顰蹙を買い、真逆に作用する事になる。

常に最大を尽くす心があれば、その時々、日々が充実したものとなり、時に反省となって明日への戒めにもなる。

話し上手な人が気を付けるべきこと

「話す」ということは“スキル”であり、これが高いに越した事は無い。

しかし、気を付けなければならないのは「長所と短所は表裏一体」という事。

「話す」に長けている事が、時に必要以上の事を言ったり、相手に誤解を与えたりする事になる。

そんな中、最も意識すべきことは、自分が「話す」事で、相手の「話す」機会を無くしたり、話そうと言う意欲を削いでいる事になっていないか?という事。

自分が出来る事や当たり前のことは他人も同様では決してない。だから、自分が自然と話せる事は他人も同様であると誤解してはならない。

「話す」スキルの低い人にとっては苦手の悪循環で「話す」機会喪失している事は多々ある、しかし、その人が言いたいことは“口下手”であるというだけで、聞くに足りない、資格ナシ、と切り捨てるのは大きな誤りである。

公平且つ平等な関係や組織を作りたい、作っている言うならば、「話す」というスキルが自他共に低いと認める人がいるならば、意識的にその人の発言を引き出す機会と発言意図や本意を汲み取るように努めるのが自然である。

逆に平たく言うと、口達者な人が上位を占める組織は必ず行き詰まる。得てして、口達者は言行不一致である事が多いので・・・。但し、口達者でありながら、行動が伴っているのであれば、決してそうとはならないが。

常に確認して欲しい。自分が話す事で相手の話を抑え込んではいないだろうか?相手の話を聞き出そうとしているだろうか?相手が話下手だからイライラするので平静ではない自分になっていないだろうか?と。

真に優れた「話し上手」は相手を圧倒・罵倒するのではなく、簡潔明瞭且つ的確に相手に話が出来るという事であって、更に、自分から一方的ではなく、如何なる相手からも「話を聞き出せる・引き出せるのが上手」=「聞き出し上手」であるという事である。

 

 

加齢と共に最も恐れるべきこと

人に物事を教え伝える仕事をしていて常々思うのは、「人は何歳になっても進化・変化・成長を止めないことが最も重要である」という事。言い換えると、謙虚さ、素直さ、勤勉さ、向上心等の言葉を忘れることなく言行一致させるということである。

逆にいうと、自分は出来ている、知っている、わかっている、満足している等と、その時々に“慢心する”という事。この状態を他人は「あの人は凝り固まった考え方だ」、「意固地になっている」、「昔と変わっていない」、「聞く耳を持たない」等と表現する。

この悲しむべき状態は当人は認識しづらい。人に指摘されるなら幸運と言えるのだが、この状態の人は他人に指摘されることを嫌い拒絶しがちなので、結局、聞き入れる訳もなく、変化する事は無い。

人は年齢を重ねると、自分の望む地位や給与、生活などを得て、充実感に満たされることがしばしばである。そして、それに至った自分自身を認め、評価したくなるものである。

そうすると、そこに至ったプロセスを忘れ“止まって”しまいがちである。

能力がある故に、自分の現在の地位や環境を的確に捉え、更に組織の一員であれば、更なる出世の可能性の有無も見通せてしまう。

そんな心が仕事面で生じてしまうも、プライベート面ではそう陥らず、進化・変化・成長しているならば、人としての歩みは止まらないと言える。

しかし、時間の大半を仕事に割いてきたからこそ、得た地位や環境を急にプライベートに裂くと言う事は決して容易ではない。むしろ、得た地位や環境を維持する為には、従来同様、またはそれ以上に求められることが生じる。だからこそ、更なる進化・変化・成長が困難である理由を並べたくなる。

仕事と言う貴重な時間を多く裂く中で、人として進化・変化・成長する機会は多くある。しかし、一般論、仕事は一生涯行う事は無いので、仕事する時間がポッカリ空いた時に人としての進化・変化・成長機会はなくなりがちなので、「定年すると様々な事が老ける、衰える」と言われているように思う。

強く認識するべきことは、進化・変化・成長は“自分の意識でしかコントロールできない”=人が何かしてくれることはないという事。そして、進化・変化・成長は“遅い早いは関係なく、とにかく止めない”=人と競わずマイペースで行くという事。更に、進化・変化・成長は“目的と目標を設定する”=根性論や闇雲に行わないという事。

わかりやすく言うと、一度きりの自分の人生の目的を立て、時にそれを変えても構わず、立て続ける事。そして、それに向かってマイペースでコツコツと大なり小なりの目標をクリアーし、自分を褒めつつも歩みを止めない事。結果は死ぬ瞬間にしか出ず、その結果を自分が納得できるかどうかだけ。

 

 

 

三角関係によるコミュニケーションのススメ

“えっ!?”と思うタイトルだが、決して男女関係の話ではない。

社会生活に於いて、上司と部下、営業担当者とお客様、自分と同僚や友人ナドナド、様々な人間関係があり、次に「上下関係」、「利害関係」、「夫婦関係」ナドに枝分かれする。

人間関係は社会生活を営む以上、避けて通れないものであり、時に悩みや悲しみを生じ、時に喜びや楽しみも生じるもので、厄介でもあり有用でもある。

特に、悩みや悲しみが生じる事を、避けたり減らしたりすることが出来るのであれば誰もがそう願うであろう。

その方法として「三角関係」をオススメしたい。

人間関係は1:1が基本であるので、1:1の関係に於いて生じる先述の事象が、その殆ど多くである。だからこそ、1:1にならない状態を作り出すという事が、それを避けたり減らしたりする事になる。違う言い方をすれば、誰かを“巻き込む”というという事である。

“巻き込む人”は当事者にとって第三者であり、求められる事は「客観的な認識・判断が出来、更に一定程度、当事者双方の立場を把握している人」である。

こう書くと難しく聞こえるが、平たく言うと、上司と部下の場合であれば上司と同格の人か、それ以上の役職の人。営業担当者とお客様の場合であれば、お客様を紹介してくれた人。自分と同僚の場合であれば、双方が慕う同僚となる。

こういった第三者の存在を否定的に「そんな人いる?」と考えるのであれば、1:1の関係を悩み続けるほかない。人間関係の悩みが生じたときに慌てて対処しようとしても即効薬などないという事を肝に銘じておき、だからこそ、常日頃から“巻き込む”第三者を探すことを意識して欲しい。

この三角関係は何もネガティブな場合に限った方法ではない、相手を褒めたり、喜ばせたりするポジティブな場合でも有効である。

スキルよりナレッジを習得すべき

先ず、“スキル”も“ナレッジ”も人の能力である。

巷では“スキル”と言う言葉が多用されている。敢えて言うなら乱用されているように思う。特に仕事に関する話には、やたらと“スキル”という言葉が使われがちである。

“スキル”とは「技術や技能」がその語彙である。言い換えると「動作」であって「目に見える」。

パソコンソフトであるエクセルやワードを操作するスキル、スマホやタブレットを操作するスキル、フォークリフトやユンボ(パワーショベル)を操作するスキル、といった用い方がわかりやすいかと思う。

先述通り、“スキル”は「技術や技能」なので、よって、初めは誰だって、どんな事だって不慣れだから下手で上手くいかない。しかし、繰り返す事によって熟練され、その能力が高まってくるものである。逆にいうと、繰り返さなければ高まる事は無いと言える。

“ナレッジ”とは「知識や知見」がその語彙であるが、私はこれに「情報」も加えて語彙と説明する。こちらは“スキル”と違って「目に見えない」。

 

“スキル”と“ナレッジ”の関係は“スキル”が「線」で“ナレッジ”が「点」とするとわかりやすい。

「点」が3つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は三角形「1つ」である、「点」が4つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は四角形や三角形など、少なくても「4つ」である。

共に、出来た図形を「業務対応能力」や「コミュニケーション能力」とすると、「点」が多い方が出来る図形の数が多いので、能力が高いと言える。

要は、“スキル”は“ナレッジ”によって活かされるものである。だから、“スキル”よりも“ナレッジ”を習得すべき、と言うのである。

もう少し説明すると、“スキル”は「線」なので、この説明で言うと“スキルが高い”は「線が太い」となる。よって、「線」がどれ程太くても、「点」が少なければ、シッカリとした三角形は出来ても、数は1つでしかない。この状態を平たく言うと、単なる「おしゃべり上手」である。

おしゃべり上手のセールスパーソンは一見するとデキる奴に見えても、話し込んで行けば無知が露呈すると逆に反感を買ったり、痛々しいものである。

“スキル”は「高く」、“ナレッジ”は「多く」である。

“スキル”は繰り返し繰り返し、何度も何度も「動作にする」事で高くなる。“ナレッジ”は先ず出来るだけ幅広く自分に取り込み、そして繰り返し繰り返し、何度も何度も「話す」事で「多く」なる。“ナレッジ”を多くするには二段階のプロセスが必須である。

私が知る限り、所謂、会社勤めをしているビジネスパーソンに於いて欠落しているのは“スキル”ではなく、“ナレッジ”と思う。何故なら、どんな業種や職務であれ特別な“スキル”は必要としていないからで、それが証拠に転職すると転職先の業種知識が無ければ最初は苦労するが、パソコンやスマホ・タブレットなどで困る事は無い。

“ナレッジ”という「点」を出来るだけ多く習得する事が、あなたの公私を豊かにしてくれます。先ずは興味関心のある事柄を深堀する事、少なくとも従事する業種の専門知識は誰よりも習得する事。

長年、その業種に従事している事で身に着く“ナレッジ”は同業他社のライバルも同等に習得しているので何ら差別化は図れない。意識的に“ナレッジ”の習得を行う事無しに個の優位性は生まれない。

是非、貪欲に「点」の習得を!

 

肩書で人を判断しない

肩書は組織に於いて、ある人の地位や身分を示す代名詞。そして、肩書は一つの「目標」であり、「動機」でもある。

しかし、中小企業に於ける肩書ほど感覚的に付与され、名実乖離しているものは無いだろう。

例えば、「全国部長検定」があったとして、大中小企業の部長と言う名の人が一堂に会すれば、その能力差は歴然と表れるものと推測する。

肩書とはそれぞれの組織に於けるものであるので、組織の人数やレベルに関係なく付与されるので、この様な事が生じる。

要は、何の統一基準もない肩書と言う呼称を以て、その人を捉える事は誤解が伴うという事。

もし、肩書を以て、その人を捉えるならば、その人が所属する組織に於いての、その人の役割や能力を示すものという程度にすればいい。

違う言い方をすると、その人の能力を把握できたなら、その時にその人の肩書を見てみれば、その組織の程度が垣間見えるという事。

あなたの組織と相手の組織の中身実態は決して同一ではない。だから、あなたの組織感覚で他の組織を捉えてはいけないし、無意味である。

社長だから部長だからナド、あなたが思う、肩書に伴う理想的な相手を描いても先述通り、何ら統一基準は存在しないので、実態が伴っている可能性は望めず、むしろ、描いたあなたが実際のギャップに違和感や戸惑い、時には怒りさえ覚えることになるだろう。

肩書ほど当てにならないものは無い。肩書ではなく、その人自体をよーく捉える事。あなたが目の当たりにしたその人の言動がその人である。