あなたの話しなんて聞きたくない、あなたは話を聞いてあげればいい

ダメリーダーやダメセールスパーソンは一所懸命自分が話をしようとする。

簡潔明快な話しであればまだしても、長々と意図不明な話をされても相手は聞いちゃいないし、むしろ嫌悪感を抱く。

あなたも相手の意味不明な価値を感じない話を聞くことは無駄だと感じるのと同様である。

 

あなたが相手と良好な関係を築きたいなら、するべきことは「聞きに徹する」、正確に言うと、「相手がどんどん話すよう、所々質問を挟み、聞きに徹する」。

相手に話をさせる事で、相手の考えやバックグラウンドが次々と出てきて、あなたは相手がどんな人物かを把握できる。

重要な事は、自分を知ってもらう事よりも、相手がどんな人かを知る事。言い換えると、相手の「傾向」がわかれば「対策」が講じられる。

 

相手の興味・関心のあること、どんな価値観や思考であるのか等々。

話しをさせる事で、相手の様々な「糸口」を見つけることになり、後々、その「糸口」を辿りながら、相手に共感・同意し距離を縮めていく。

「自分を認めてくれている相手」の話しは聞き入れやすいし、本音を言いやすい。

「話す事」は相手からすれば、「話を聞いてもらう事=自分を認めてもらう事」となる。セールスパーソンのあなたがこの心理だから一所懸命話そうとするだろうが、相手はお客様で、お客様があなたを認めたからと言って、あなたの商品を必要もないのに買う訳がない。

真逆で、あなたがお客様に認めてもらう前に、お客様があなたに認めてもらっている、と認識できる状態をつくることが肝要である。

その前提をつくった上で、あなたの事をお客様に認めてもらうよう、話すなり行動に示すなりすればいい。

会社経営=事業運営+組織運営

中小企業の創業者が社長をやっている会社は会社経営のうち、「事業運営」に偏重している傾向が強い。

売上無くして利益は生まれないから、先ずは売り上げを立てる事、そして、それを維持は勿論、増加させて行く事に邁進する。これは当然であり必然である。

ある程度会社が安定してきたというのは、この売り上げが安定してきたという事で、同時に社員数も増えている状態である。

 

そのタイミングで社長が注力すべきは「組織運営」。

会社としての様々なルール作りを行い、それまでの“何でも社長が口出しし、判断する”という事象を卒業しにかからねばならない。

しかし、私の知る限り、創業社長は大抵、じっとしてるのが嫌い、パソコン使うのは嫌い、何か書くことは嫌い、売り上げにならないことは嫌い、自分が縛られるのは嫌いナドナドの性格である。

なので、「組織運営」は必要と分かっているが後回しでったり、士業たちに丸投げして対処しがちである。

 

車で言う「事業運営」と「組織運営」は両輪であり、ハンドル=会社経営を握る社長はこの両輪のバランスを重視し、注力しなければアンバランスな危険な走行を続けることになる。

 

「組織運営」の要諦は、「採用と教育」そして、「制度と評価」。

採用にお金を掛ける事は重要であり必然であるが、その際に「どんな人財が欲しいのか?」を明確にする必要があり、それを考える為には、所謂、「理念」が必要となってくる。

しかし、先述通り、創業社長が嫌う要素が集約された、“「理念」を考える”という行為は後回しか士業やコンサルタントに丸投げしてしまう。

人が作ったものだから、創業社長が腹落ちしないまま使っても誰にも響かない。結果、絵に描いた餅で風化して行く・・・。

酷い場合は、「理念とかそんな難しいややこしい話し抜きで何とかならないのか?」と絶句の決まり文句が聞こえてくる。

他には、「教育する時間と暇がない!、それが出来るなら現場が先!」、今では「現場に人が足りないから、そんな余裕ない!」。

更に更に、「制度と評価」だけを社労士やコンサルタントに作成依頼し、既存社員は締め付け感を感じたり、現実的に取得できる可能性を感じない有給を聞かされ、呆れたり、有難味を感じず、社長にしてみると“してやっている”という勝手な思いと相反し、良くなる期待が真逆で終わる事になる。

 

「組織運営」を面倒くさい、邪魔、うちには必要ない、と思っている社長の会社は一定規模が限度でそれ以上の成長は困難である。

よって、そこに在籍している社員は、それが平気なら、その社員の能力もそれ止まりなので、それ以上能力が成長する訳もない。違う言い方をすれば、整った組織運営が出来ている会社には、それに見合った能力の人財が存在するという事。

 

リーダーの能力が組織の天井

優れた人材が欲しいと思うなら、リーダー自らが止むことなく自己研鑽に邁進し、進化成長しなければならない。

新卒であれ中途であれ新入社員が入社し、意欲的に仕事に取り組むも、そのリーダー次第では意欲を増減させることとなり、最悪は退社することになりかねない。

 

リーダーは自分が解らないこと、知らないことを判断も評価も出来る訳がない。

例えば部下からすると、最先端の有効な技術や情報を業務に有効と思って提案するも、判断者が判断できないとわかると、提案すること自体しなくなってしまう。

しかし、リーダーとして提案内容の詳細は不明だが、責任だけ取るので思い切って部下に任せる!という判断が出来るのなら話は別になり、こういった判断が出来るリーダーが存在する組織ならば、リーダーの能力が組織の天井とはならないが・・・。

 

リーダーはリーダーになるまでに培ったものがあるからこそ、リーダーになっている。しかし、リーダーとなったからと言ってゴールに到達したわけではなく、真逆でリーダーになったからこそ、今まで以上に向上心を以て万事、取り組まねば組織は停滞する。

世の中、知らぬこと、分からぬことばかりである。

キリが無いから無駄と思う事が停滞を意味し、キリが無くても部下を思い、飽くなき進化・成長を自ら鼓舞する事が組織を進化・成長させる。

部下が言ってきたことが解らなければ素直に聞いて教えてもらえばいい、時勢に話題となっている物事には興味関心を持ち、多少なり知り、使えるようになったほうがいい。

 

リーダーとは社長も含む。

中小企業は社長を見れば社員の程度がすぐわかる。

社長にとっては社員が自分を映す鏡であり、社員にとっては社長が見本・手本である。

 

 

中小企業の役職名ほどアテにならないものはない

役職名は組織の序列を示すものであると同時に、その人の能力を示すものと言える。

しかし、同一名称であっても、組織毎に比較すると大きな違いがある。

平たく言うと、従業員1,000人を超える大企業と10人の中小企業では、同一役職名であっても、能力に雲泥の差があるという事。

極端な言い方をすれば、中小企業の社長は大企業の課長と同等の能力である可能性もあるという事。

 

経験したエピソード。

部長として長く財務経理を担当していた人が引退を考え始め、後任を異動させてきた際に非異動者の事を、「銀行にナメられるから、彼に課長の肩書を与えるべきだ」と発言。

心情は察するが、本質が見えていない。

実務のやり取りを行い、しばらくすれば銀行はその人の能力を捉える事になる。その能力が未熟であれば、銀行はどう思うだろうか?普通に考えれば、「この会社の課長ってこんな程度?」となるのではないだろうか?そうすると、その人はおろか、会社自体がナメられる事になる。

他にも類似したことが頻発している。

「会社組織を強固にし、前進前衛的な組織を目指す!」と宣言し、店舗統括していた人物(その時点で部長の肩書)を役員としたのだ。

取引先の人たちは“昇進”でしかも“役員”であるから、大げさなまでに「祝辞」を述べる。

それに対し、当人は謙遜発言するも、ご満悦の表情。

取引先の人たちもバカじゃないので、当人の能力判断はしている。その心の声を可視化すれば、「あの人が役員?あの会社大丈夫?」、「また偉そうな言動に拍車がかかるな」、「役職の大バーゲン会社だな」ナドナド。

安易な役職付与は会社の対外的な信頼や評価を下げる事になる。更には、明らかな能力不相応な付与は当人にも悪影響を与え、役職名に満足してしまい、大きな勘違いを生み出し、社内外にも悪影響を振りまく。

言うまでもなく、役職付与は適正に行えば、当人は勿論、組織全体が活性化する事は事実である。しかし、この事例の様に、誤った付与は何らプラスを生み出さない。

 

中小企業にも関わらず、役員や役職者が多い会社は血縁者がはびこるスーパー同族会社か、ナンチャッテ経営をしているワンマン社長会社のどちらかが殆ど。

その事象は社長の経営者としての無知さか無能さを示すと言っても過言ではない。

飲ミュニケーション一辺倒じゃダメですよ

お酒を飲んで本音を語り合うことは一つのコミュニケーション手段として有効と言える。

敢えて言うと、飲むのは話し相手の部下が発言しやすくすることを一番の目的としているからである。

逆を言うと、リーダーやマネージャーが自分が言いやすい環境をつくる為と考えるのは本来的ではない。

 

何故なら、人の上に立つ者の絶対則の一つとして、「感情をコントロールする」がある。

仕事に於いて“怒り”だけが感情をコントロールする場面ではない。

「喜怒哀楽」と言われる4大感情の全部の場面に於いてコントロールするという事が求められる。

 

業務は日中に行っている、要は飲んでいる状態ではない。

そんな中、一瞬一瞬にリーダー・マネージャー、部下双方に「喜怒哀楽」が生じる。

その瞬間に如何にして間髪入れず、特に「褒める」事が出来るかどうか。

「褒める」という事は不慣れだと照れくさく恥ずかしい事なので、折角のチャンスに適切に出来ない事がしばしばである。しかし、人にとってもっとも“やる気”の原動力となる「褒められた」を適切なタイミングで与えれば効果倍増である。

 

「感情をコントロールする」とは、言い換えの一つとして、物事が生じた瞬間に適切な表現を以て反応し、相手の感情をコントロールする、となる。

リーダー・マネージャーの自分自身のみならず、相手の感情をコントロールする事も指す。

 

部下から、「上司に飲みに誘われた」=「多少なり重い話がある」などと悟られては人の上に立つものとしては未熟な証拠。

飲んでも飲まなくても、昼でも夜でも自分の感情をコントロールし、相手の感情もコントロール出来る様になるよう意識しよう。

決断できないならリーダーを降りるべき

社長のみならず、何人であろうと人の上に立つ人の大きな役割の一つは「決断する」という事。

トップダウンの組織では誰の意見を聞くことなく、リーダーが独断で決断するのだが、今日では“フラットな組織”や“全員参加型”等の言葉が経営に取り入れられ、色々な意見が出てくることで、リーダーが「迷う」事になり、なかなか決断する事に苦慮するという事象も少なからず起きている。

他には、リーダーの立場であるにも関わらず、自分の上長に判断を仰いだり、委ねるといった中間リーダーも散見する。

 

言うまでもなく、「決断する」という事は「責任を取る」という事。

逆に言えば、「責任を取らない」という事は「決断しない」という事。

これからすると、「責任は取らない」にも関わらず、「決断した」となると全く持って無責任と言える。

 

「決断する」と「判断する」の違いは、前者が単に「決める」という事。後者は対象となる物事を的確に捉え、真偽や善悪を踏まえ、論理的なプロセスを踏まえて「決める」という事。

違う言い方をすると、リーダーは「判断」すべく、熟考に熟考を重ねるも、「判断」に迷っても、最終的には「決断」しなければならない、となる。

 

「決断」するの際しては時として「正誤」を求めがちである。

これは間違いではないのだが、万事、「正誤」が存在しない物事や、状況によって「正誤」が変化することもしばしばである。

要は、論理的根拠ではなく、自分自身の精神的根拠を以て、所謂、「エイヤー!」で「決断」するのが「決断」という事。

その為に必要な要素は「自信」と「覚悟」。

逆に言うと、「自信」と「覚悟」が無いリーダーは「決断できない」と言える。

 

「自信」や「覚悟」は自ら日頃から鍛錬する事で生まれるもの。

ナンチャッテ名ばかりリーダーは自己鍛錬していないから「自信」や「覚悟」が備わっていない。

だから「決断」出来ないの。

相手の話をじっくり聞けば相手の知力が見えてくる

相手が話す“内容”を理解・把握する事は当然重要であるが、同時に、相手が話している際に用いる“単語”や“言葉の構造”を意識すると相手の「知力」が見えてくる。

相手がどんな肩書きや年齢であっても、常にそれらに伴った知力があるとは限らない。

例えば、「相殺」、これは「そうさつ」ではなく「そうさい」。「そうさつ」と読むときは「互いに殺し合う事」である。「直火」、これは「ちょくび」ではなく「じかび」。「重複」、これは「じゅうふく」ではなく「ちょうふく」、等々。

間違い易い言葉を平然と間違えたまま使っている役職者や年長者になっていないだろうか?

 

人の上に立つリーダーやマネージャーとして、用いる言葉の「質」を意識しているだろうか?

要は、どれ程の「語彙力」が自分にあるか?

「語彙力」が乏しいと、回りくどかったり稚拙な話し方になる。

 

一般的に「語彙力」の高い低いは「本を読んでいるかどうか」に依ると言われている。

所謂、「口語」と「文語」の違いで、本は「文語」で書かれているので、作者の表現したい事を極力端的且つ明確に示す熟語を多用する。なので、「語彙力」が無いと文章を理解できないことになる。

分かりやすく言うと、メールで相手に何かを伝えようとしたとき、書き始めたものの上手く書けず、面倒くさくなり、電話で伝える、という行動は、言い換えると、「文書作成能力(=語彙力)が低いから、電話で済ませる」となる。

メールやSNSが普及し、文書(文字)によるコミュニケーション手段が容易な現代社会に於いて、今尚、主に電話でコミュニケーションを取る人は、この傾向があると思っていい。

 

文章を書くことは語彙力を鍛えるいいトレーニングである。

トレーニングだけに楽ではない。

楽ではないから向き合うには覚悟が必要である。

逆に言えば、トレーニングを避ければ自分の語彙力は高まらない。

「俺は本を読むのが苦手だ!けれど、何でも実践して体験する主義なんだ!」と「読書」というトレーニングをあたかも正当な理由の様に聞こえる言い訳で回避している人は真なるリーダーやマネージャーにはなれない。

 

意識しなければならないのは、“低い語彙力で良く喋るリーダーやマネージャー”になっていないかどうか?

 

もぐらタタキ経営は経営者が無能な証拠

会社運営に於いて日々、大なり小なり問題課題、時には事件事故が発生する。

生じた内容程度により、誰が対処し解決するかは様々だが、役員がそれらに奔走してばかりで、それが役員として重要な役割と思っているなら、大きな誤解である。

 

役員は経営者の一員であるから、経営者として会社の制度やルールをつくり、維持していく事が役割である。

役員が考えねばならないのは、生じる多種多様な問題課題の「本質的な原因」である。

「何故、この様な問題課題が生じるのか?」を深く熟考し、原因追求し、それを解決しなければならない。

要は“根”を見つけ出し、それを“断ち切る”のだ。

で、なければ、いつまで経っても、“根”が同じで生じる問題課題の対処解決に奔走し、最悪はそれで「忙しい!」と言ったり、部下に向かって、「問題を起こすな!」と自分の無能さに気付かず、他人に責任転嫁する事になる。

この状態を“もぐらタタキ”と言う。

 

一見、解決したと捉えている事は、再度、類似する事象が生じれば、それは沈静化したか先延ばしにした、または有耶無耶にした、という事になる。要は「対処しただけ」という事。

繰り返すが、生じた問題課題の「本質的な原因」を捉えずして「解決」とは言わない。

「解決能力」とは、先ず「本質的な原因」追究できる能力が求められる。

 

 

 

長年同一業種で働いたからといって“プロ”とは限らない

「この道30年です」、「ずっと〇〇畑でやってます」、なので、「プロです!」と主張する人がいる。

その業種に従事していない人と比較すれば、長年同一業種に従事している人は当然、知識や技術は上回っているだろう。

しかし、それを指して“プロ”と言うには無理がある。

 

同一業種内で比較するとどうだろうか?

その上でもトップレベルの知識や技術を有しているなら“プロ”と呼べるかもしれないが、正確には“スペシャリスト”である。

 

“プロ(フェッショナル)”と“スペシャリスト”の違いは、私の定義上、“プロフェッショナル”とは、「金銭を得て与えられた任務・役割を担い、然るべき結果を出す人」。“スペシャリスト”とは、「ある事柄に圧倒的に精通した知識や技術を有している人」である。

更に、“プロフェッショナル”は時として“スペシャリスト”を含むが、“スペシャリスト”は“プロフェッショナル”では決してない。

 

長年同一業種を経験しているからと言って、「圧倒的に精通した知識や技術を有している人」になれるだろうか?

本人自ら、自発的に自らの業種に関する知識や技術、情報を、同一業種のライバル以上に得ようと努力せねば身につくわけがない。

平たく言うと、同業者から一目置かれる状態になっていれば“スペシャリスト”と呼べるであろう。

 

先述通り、“プロ”とは、「然るべき結果を出す人」なので、「然るべき結果」の程度は「報酬」によって示される。

敢えて言うと、給与所得者は「給与」という「報酬」を得ているので“プロフェッショナル”と言える。しかし、その額に高低があるという事は「然るべき結果を出せる能力の高低」と言える。

どの程度の“プロ”なのか?ピンキリである。

 

冒頭の「この道30年です」だから“プロ”です!は、長年経験しているという「量」は事実としても、「質」は必ずしも比例しないので“プロフェッショナル”とも“スペシャリスト”共に、言うには無理があるのである。

誤った役職付与は会社も本人もダメにする

「凄くがんばってるから」、「更にやる気を出してもらおう!」、「立場が人を育てるから」ナドナドの理由で社長が張り切って役職を付与するのは会社にも当人にとってもいいカンフル剤であることは間違いない。

しかし、誤って付与すれば、真逆の悪影響になる。

 

社長は付与される人の能力や性格を適切に把握せず、一方的な思い込みで判断と期待をして付与してしまう。

最悪は、周囲が付与される人の能力や性格を認めず、むしろダメ出しをしている場合。

周囲はシラケムード、付与された本人への風当たりは強く、本人もとばっちり状態でいきなりアゲンストのスタートとなる。

痛々しく哀れなのは、そもそも実力が無いのに役職名を付与されたことで、その肩書きを誤解して浅知恵で肩書きに相応しい言動を行おうとする人。要は、口ばかりで偉そうにしてロクに働かない人なのだ。

 

付与した社長は自分は正しい判断をしたと思い込んでいるので、本人に良かれと思って掛ける言葉は本人にはプレッシャーの上塗りにしかならず悪循環。

周囲はシラケているので、本人に手を差し伸べようともせず、社長への懐疑心も芽生え始め、自己中思考に走り、必要な協調性や連帯感からは遠ざかっていく。

 

しまいには、当人が「辞めます」というか、社長がキレて本人を公開処刑。

それを見た周囲が、「それ、見たことか」と嘲笑する。

 

社長だからと言って、人の能力を適切に見分ける能力が高いとは限らない。

社長だからと言って、人のやる気を引き出すのが上手とは限らない。

社長だからと言って、組織作りが出来るとは限らない。

 

中小企業にも関わらず、社員数も大して多くないにも関わらず、役職名がついてる人が多い会社は要注意!