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中小企業の役職名ほどアテにならないものはない

役職名は組織の序列を示すものであると同時に、その人の能力を示すものと言える。

しかし、同一名称であっても、組織毎に比較すると大きな違いがある。

平たく言うと、従業員1,000人を超える大企業と10人の中小企業では、同一役職名であっても、能力に雲泥の差があるという事。

極端な言い方をすれば、中小企業の社長は大企業の課長と同等の能力である可能性もあるという事。

 

経験したエピソード。

部長として長く財務経理を担当していた人が引退を考え始め、後任を異動させてきた際に非異動者の事を、「銀行にナメられるから、彼に課長の肩書を与えるべきだ」と発言。

心情は察するが、本質が見えていない。

実務のやり取りを行い、しばらくすれば銀行はその人の能力を捉える事になる。その能力が未熟であれば、銀行はどう思うだろうか?普通に考えれば、「この会社の課長ってこんな程度?」となるのではないだろうか?そうすると、その人はおろか、会社自体がナメられる事になる。

他にも類似したことが頻発している。

「会社組織を強固にし、前進前衛的な組織を目指す!」と宣言し、店舗統括していた人物(その時点で部長の肩書)を役員としたのだ。

取引先の人たちは“昇進”でしかも“役員”であるから、大げさなまでに「祝辞」を述べる。

それに対し、当人は謙遜発言するも、ご満悦の表情。

取引先の人たちもバカじゃないので、当人の能力判断はしている。その心の声を可視化すれば、「あの人が役員?あの会社大丈夫?」、「また偉そうな言動に拍車がかかるな」、「役職の大バーゲン会社だな」ナドナド。

安易な役職付与は会社の対外的な信頼や評価を下げる事になる。更には、明らかな能力不相応な付与は当人にも悪影響を与え、役職名に満足してしまい、大きな勘違いを生み出し、社内外にも悪影響を振りまく。

言うまでもなく、役職付与は適正に行えば、当人は勿論、組織全体が活性化する事は事実である。しかし、この事例の様に、誤った付与は何らプラスを生み出さない。

 

中小企業にも関わらず、役員や役職者が多い会社は血縁者がはびこるスーパー同族会社か、ナンチャッテ経営をしているワンマン社長会社のどちらかが殆ど。

その事象は社長の経営者としての無知さか無能さを示すと言っても過言ではない。

相手の話をじっくり聞けば相手の知力が見えてくる

相手が話す“内容”を理解・把握する事は当然重要であるが、同時に、相手が話している際に用いる“単語”や“言葉の構造”を意識すると相手の「知力」が見えてくる。

相手がどんな肩書きや年齢であっても、常にそれらに伴った知力があるとは限らない。

例えば、「相殺」、これは「そうさつ」ではなく「そうさい」。「そうさつ」と読むときは「互いに殺し合う事」である。「直火」、これは「ちょくび」ではなく「じかび」。「重複」、これは「じゅうふく」ではなく「ちょうふく」、等々。

間違い易い言葉を平然と間違えたまま使っている役職者や年長者になっていないだろうか?

 

人の上に立つリーダーやマネージャーとして、用いる言葉の「質」を意識しているだろうか?

要は、どれ程の「語彙力」が自分にあるか?

「語彙力」が乏しいと、回りくどかったり稚拙な話し方になる。

 

一般的に「語彙力」の高い低いは「本を読んでいるかどうか」に依ると言われている。

所謂、「口語」と「文語」の違いで、本は「文語」で書かれているので、作者の表現したい事を極力端的且つ明確に示す熟語を多用する。なので、「語彙力」が無いと文章を理解できないことになる。

分かりやすく言うと、メールで相手に何かを伝えようとしたとき、書き始めたものの上手く書けず、面倒くさくなり、電話で伝える、という行動は、言い換えると、「文書作成能力(=語彙力)が低いから、電話で済ませる」となる。

メールやSNSが普及し、文書(文字)によるコミュニケーション手段が容易な現代社会に於いて、今尚、主に電話でコミュニケーションを取る人は、この傾向があると思っていい。

 

文章を書くことは語彙力を鍛えるいいトレーニングである。

トレーニングだけに楽ではない。

楽ではないから向き合うには覚悟が必要である。

逆に言えば、トレーニングを避ければ自分の語彙力は高まらない。

「俺は本を読むのが苦手だ!けれど、何でも実践して体験する主義なんだ!」と「読書」というトレーニングをあたかも正当な理由の様に聞こえる言い訳で回避している人は真なるリーダーやマネージャーにはなれない。

 

意識しなければならないのは、“低い語彙力で良く喋るリーダーやマネージャー”になっていないかどうか?

 

長年同一業種で働いたからといって“プロ”とは限らない

「この道30年です」、「ずっと〇〇畑でやってます」、なので、「プロです!」と主張する人がいる。

その業種に従事していない人と比較すれば、長年同一業種に従事している人は当然、知識や技術は上回っているだろう。

しかし、それを指して“プロ”と言うには無理がある。

 

同一業種内で比較するとどうだろうか?

その上でもトップレベルの知識や技術を有しているなら“プロ”と呼べるかもしれないが、正確には“スペシャリスト”である。

 

“プロ(フェッショナル)”と“スペシャリスト”の違いは、私の定義上、“プロフェッショナル”とは、「金銭を得て与えられた任務・役割を担い、然るべき結果を出す人」。“スペシャリスト”とは、「ある事柄に圧倒的に精通した知識や技術を有している人」である。

更に、“プロフェッショナル”は時として“スペシャリスト”を含むが、“スペシャリスト”は“プロフェッショナル”では決してない。

 

長年同一業種を経験しているからと言って、「圧倒的に精通した知識や技術を有している人」になれるだろうか?

本人自ら、自発的に自らの業種に関する知識や技術、情報を、同一業種のライバル以上に得ようと努力せねば身につくわけがない。

平たく言うと、同業者から一目置かれる状態になっていれば“スペシャリスト”と呼べるであろう。

 

先述通り、“プロ”とは、「然るべき結果を出す人」なので、「然るべき結果」の程度は「報酬」によって示される。

敢えて言うと、給与所得者は「給与」という「報酬」を得ているので“プロフェッショナル”と言える。しかし、その額に高低があるという事は「然るべき結果を出せる能力の高低」と言える。

どの程度の“プロ”なのか?ピンキリである。

 

冒頭の「この道30年です」だから“プロ”です!は、長年経験しているという「量」は事実としても、「質」は必ずしも比例しないので“プロフェッショナル”とも“スペシャリスト”共に、言うには無理があるのである。

社長だからと言って経営能力があるとは限らない

“社長”と聞けば、「すごい」、「偉い」、「立派」、「お金持ち」、「遠い存在」等々の形容詞が出てくるかと思う。

人は“社長”と名乗る人に一定な思い込みがあるようだ。

 

表題の通り、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」のである。

私の経験値では、多くの社長が中小企業の創業者であるが、それらの方々の共通項は“トップセールスパーソン”という事。

言い換えれば、一組織人だとすれば、「他人に圧倒的な差をつけるセールス能力を持った人」である。

 

なので、中小企業の社長の多くは走り歩いている。

正確に言うと、「創業期は」である。

違う言い方をすると、創業10年以上経過しているにも関わらず、社長自らが走り歩いている状態の会社とは、社長が自分の会社組織をつくれずに、創業期のまま今に至っている、と言える。

これが、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」という事である。

 

セールス能力と経営能力は異なる。

セールス能力は、「話し上手」、「相手心理を見抜く力が長けている」、「交渉力がある」、「頭の回転が速い」、「気が利く」等の言葉が問われる。

経営能力は、「全体を見通す能力がある」、「我慢強い」、「継続力がある」、「謙虚である」、「感情を抑えることが出来る」等の言葉が問われる。

セールス能力と経営能力の根本的な違いは、その能力を前者はお客様(社外)に向け、用い、後者は社員(社内)に向け、用いるのである。

なので、会社に居る時間が短かったり、役員や社員と話す時間より社外の人と話す時間が多い社長の会社は、殆ど多くの場合、「社内がガタガタ落ち着かない」、「いつも同じ様な内容でトラブルが起きる」、「社員定着率が悪い」と言った事象が起きている。

要は、会社をつくり切れていないのである。

自分の会社は役員つくるのではなく、社員がつくるのでもない。社長自身がつくる以外ない。

にも関わらず、「売り上げが無くなったら会社はつぶれる!」と言い張り、ひたすらトップセールスに走る。

 

繰り返しになるが、業歴10年以上経過し、いつも新しいことを行うも数年間売り上げも利益も大きく増加も現象もしない、しかし、社員は定着せず常に入れ替わりがあり、いつも同じような事ばかり起きている、と言った会社は社長に経営能力が無いと判断していい。

以前、記したように、「人を肩書で判断してはいけない」のである。

 

”気付く”という能力は先天性

「床に落ちているゴミに気付く」

「お客様の要望に気付く」

「相手が言わんとすることを気付く」

「自分の間違いに気付く」

「場の空気に気付く」

 

“仕事が出来る人”、“サービス精神が旺盛な人”、“頭がいい人”等と形容される人の共通項の一つとして、「気付く」という能力が長けていると思う。

よく質問される事の一つがこれで、「どうやったら気付けるようになりますか?」

それに対する私の回答は、「“気付く”という能力は先天性なので無理です」

そうすると、「えっ!?」

 

多くの事に気付ける人にとっては当たり前に自分が出来る事なので、出来ない人を不思議に思う。無理もない。

しかし、この“気付く”をトレーニングするには四六時中強く“気付くべきことを意識し続ける”という事が必要となる。

こんな事、実現可能と思われるでしょうか?

 

厳密に言うと、無意識の上で“気付く”という事が先天性の能力。

だから、どうしようもない。

性格の違いと同様の理解をし、相手に自分同様の“気付き”を求めることなく、相手と接し動かしていく他ない。

予定は自ら立てるもの

“予定を立てても突発的に起きる事が多いので立てられない”

“お客様の都合に合わせるので、こっち都合は立たない”

“そもそも予定を立てる意味がない”

ナドナド、「出来ない理由」や「したくない理由」を反論として聞くことがしばしばある。

そういった人や会社は引いて見てみると、万事“行き当たりバッタリ”状態で、毎日何だか忙しなく過ごしていて、あたかも“頑張ってやっている感”が蔓延しているが、冷静に見ると、単に追われているか、大したことのない事に奔走している、と言った状態に陥っている。

予定を立てる事は、ある種「自分や会社を拘束する」に似た感覚を覚える。

それ故、息苦しく感じたり、何とも言えない不自由を感じるのは、ある意味必然であるが、それによって、予定を立てないままいると、結果的に何も意図する結果には至らない。

予定を立てない人や会社で「予算」を立てても達成する事は稀で、各人の意識は上位者と大きな隔たりが生じるのが常々である。

これは、「予算」という定量的結果は数字なので、目にする事(可視化する事)は容易であり、正当性と必然性を強調しやすいので、上位者は自分の仕事をしているという自覚で立てる。

しかし、部下は日常的に数字のみならず色々な事を予定を立てて動く、考えるという習慣を身に付けていなければ、予算と言うものも、その一つとしてしか捉えないので、達成しようと口では言っても具体的に行動に転化する意識も方法も持ち合わせていない。

要は、普段からしていない事は出来る訳がない、と言う事。

予定を立てるという事と人生の生きる意味や目的を持つ、という事に相通じる。逆にいうと、一週間、一か月、一年間と言う予定を立てられない、立てない人は人生の生きる意味や目的を持っている訳はないと言える。

時間は自然の法則通り勝手に過ぎていく、言い換えると“流れている”。毎日を精一杯、励んで努めているつもりでも、実は“流されている”。

人や物事は自分の意志で以て、先に目指す結果や目的目標を定め、そして足元や目先を着実に自分の意志で進まねば容易に“流される”。

予定を立てると言う事は、“流されまい”とする自分自身の意志である。立てずに日々を過ごしているという事は、“流されるがまま”であって、自分の意志ではない。なので、自分の望む場所には決して辿り着けないのである。

行き先を決めて歩き出す事

「ゴールを設定する」、「目標を立てる」、「目的をハッキリさせる」等、よく言われる言葉であるが、このタイトルもそれらと全く同じことを言っている。

どの言葉も本質的な意味は、「行き先を決めずに出発すると、単に歩いているだけになったり、ペース配分を間違えたり、必要以上に時間が掛りすぎたり、方向を見失ったり、という状態に陥るので、そうならないように」という事である。

この事で最上位の考えは「人生」である。人それぞれ、何年生きるかわからないが、死ぬ時をゴールと言うならば、その時に辿り着きたい自分の胸の内も含めての状態を出来るだけ明確に描くという事。

次に「仕事生活」。会社員であれば定年が一つの大きな目途となるので、退職日に家族や同僚から、どんな状態で見送られたいのか?それ以上に、自分自身がその当日に、どんな胸の内で居たいのか?を出来るだけ明確に描くという事。

更に、経営者であれば、会社全体や担当する部署の短中長期それぞれの到達したい、定量的・定性的結果を出来るだけ明確に描くという事。

一案件やプロジェクトと呼ばれる大きな案件の場合でも、“求める結果”を定量的にも定性的にも出来るだけ明確に描くという事。

行き先が決まっているという事は、そこに辿り着く「順路」、「時間」、「距離」、「方法」が見えてくる。「順路」や「方法」は一通りではない事が多いだろう。

そうだとすれば、その組み合わせを考えて考えて、最善を考え抜かねばならない。まして、その道中が自分一人だけではなく、仲間や部下がいるならば、その人たちの事も考えるのがリーダーであれば“当然の役割”である。

一つアドバイスするならば、出発地点から行き先を考える事のみならず、逆に、行き先から出発地に戻ってくる事も考えると良い。そうする事で、全く違った考えを思いつくこともしばしば、それにより、より道中の全体図が明確になる=質が高まる事になる。

こうやって書くと、言っている事は当たり前すぎる事とわかるのだが、果たして本当に色々な事の「行き先」は明確なのだろうか?特に、期間が長くなる事=「人生」が最も不明確であることが多く見受けられる。

行き先のわからぬまま、「走れ!」と言われて短時間・短距離は走れても続く訳もない、走らずとも歩き始めても、いつ休憩していいのか?休憩時間はどれ位取れるのか?また歩き始めるにしても、どの位の距離を歩かねばならないのか?

あなた自身がそんな状態になっていないだろうか?あなたがリーダーであれば、あなたの部下はそんな心情でいるのではないだろうか?

 

話し上手な人が気を付けるべきこと

「話す」ということは“スキル”であり、これが高いに越した事は無い。

しかし、気を付けなければならないのは「長所と短所は表裏一体」という事。

「話す」に長けている事が、時に必要以上の事を言ったり、相手に誤解を与えたりする事になる。

そんな中、最も意識すべきことは、自分が「話す」事で、相手の「話す」機会を無くしたり、話そうと言う意欲を削いでいる事になっていないか?という事。

自分が出来る事や当たり前のことは他人も同様では決してない。だから、自分が自然と話せる事は他人も同様であると誤解してはならない。

「話す」スキルの低い人にとっては苦手の悪循環で「話す」機会喪失している事は多々ある、しかし、その人が言いたいことは“口下手”であるというだけで、聞くに足りない、資格ナシ、と切り捨てるのは大きな誤りである。

公平且つ平等な関係や組織を作りたい、作っている言うならば、「話す」というスキルが自他共に低いと認める人がいるならば、意識的にその人の発言を引き出す機会と発言意図や本意を汲み取るように努めるのが自然である。

逆に平たく言うと、口達者な人が上位を占める組織は必ず行き詰まる。得てして、口達者は言行不一致である事が多いので・・・。但し、口達者でありながら、行動が伴っているのであれば、決してそうとはならないが。

常に確認して欲しい。自分が話す事で相手の話を抑え込んではいないだろうか?相手の話を聞き出そうとしているだろうか?相手が話下手だからイライラするので平静ではない自分になっていないだろうか?と。

真に優れた「話し上手」は相手を圧倒・罵倒するのではなく、簡潔明瞭且つ的確に相手に話が出来るという事であって、更に、自分から一方的ではなく、如何なる相手からも「話を聞き出せる・引き出せるのが上手」=「聞き出し上手」であるという事である。

 

 

三角関係によるコミュニケーションのススメ

“えっ!?”と思うタイトルだが、決して男女関係の話ではない。

社会生活に於いて、上司と部下、営業担当者とお客様、自分と同僚や友人ナドナド、様々な人間関係があり、次に「上下関係」、「利害関係」、「夫婦関係」ナドに枝分かれする。

人間関係は社会生活を営む以上、避けて通れないものであり、時に悩みや悲しみを生じ、時に喜びや楽しみも生じるもので、厄介でもあり有用でもある。

特に、悩みや悲しみが生じる事を、避けたり減らしたりすることが出来るのであれば誰もがそう願うであろう。

その方法として「三角関係」をオススメしたい。

人間関係は1:1が基本であるので、1:1の関係に於いて生じる先述の事象が、その殆ど多くである。だからこそ、1:1にならない状態を作り出すという事が、それを避けたり減らしたりする事になる。違う言い方をすれば、誰かを“巻き込む”というという事である。

“巻き込む人”は当事者にとって第三者であり、求められる事は「客観的な認識・判断が出来、更に一定程度、当事者双方の立場を把握している人」である。

こう書くと難しく聞こえるが、平たく言うと、上司と部下の場合であれば上司と同格の人か、それ以上の役職の人。営業担当者とお客様の場合であれば、お客様を紹介してくれた人。自分と同僚の場合であれば、双方が慕う同僚となる。

こういった第三者の存在を否定的に「そんな人いる?」と考えるのであれば、1:1の関係を悩み続けるほかない。人間関係の悩みが生じたときに慌てて対処しようとしても即効薬などないという事を肝に銘じておき、だからこそ、常日頃から“巻き込む”第三者を探すことを意識して欲しい。

この三角関係は何もネガティブな場合に限った方法ではない、相手を褒めたり、喜ばせたりするポジティブな場合でも有効である。

スキルよりナレッジを習得すべき

先ず、“スキル”も“ナレッジ”も人の能力である。

巷では“スキル”と言う言葉が多用されている。敢えて言うなら乱用されているように思う。特に仕事に関する話には、やたらと“スキル”という言葉が使われがちである。

“スキル”とは「技術や技能」がその語彙である。言い換えると「動作」であって「目に見える」。

パソコンソフトであるエクセルやワードを操作するスキル、スマホやタブレットを操作するスキル、フォークリフトやユンボ(パワーショベル)を操作するスキル、といった用い方がわかりやすいかと思う。

先述通り、“スキル”は「技術や技能」なので、よって、初めは誰だって、どんな事だって不慣れだから下手で上手くいかない。しかし、繰り返す事によって熟練され、その能力が高まってくるものである。逆にいうと、繰り返さなければ高まる事は無いと言える。

“ナレッジ”とは「知識や知見」がその語彙であるが、私はこれに「情報」も加えて語彙と説明する。こちらは“スキル”と違って「目に見えない」。

 

“スキル”と“ナレッジ”の関係は“スキル”が「線」で“ナレッジ”が「点」とするとわかりやすい。

「点」が3つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は三角形「1つ」である、「点」が4つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は四角形や三角形など、少なくても「4つ」である。

共に、出来た図形を「業務対応能力」や「コミュニケーション能力」とすると、「点」が多い方が出来る図形の数が多いので、能力が高いと言える。

要は、“スキル”は“ナレッジ”によって活かされるものである。だから、“スキル”よりも“ナレッジ”を習得すべき、と言うのである。

もう少し説明すると、“スキル”は「線」なので、この説明で言うと“スキルが高い”は「線が太い」となる。よって、「線」がどれ程太くても、「点」が少なければ、シッカリとした三角形は出来ても、数は1つでしかない。この状態を平たく言うと、単なる「おしゃべり上手」である。

おしゃべり上手のセールスパーソンは一見するとデキる奴に見えても、話し込んで行けば無知が露呈すると逆に反感を買ったり、痛々しいものである。

“スキル”は「高く」、“ナレッジ”は「多く」である。

“スキル”は繰り返し繰り返し、何度も何度も「動作にする」事で高くなる。“ナレッジ”は先ず出来るだけ幅広く自分に取り込み、そして繰り返し繰り返し、何度も何度も「話す」事で「多く」なる。“ナレッジ”を多くするには二段階のプロセスが必須である。

私が知る限り、所謂、会社勤めをしているビジネスパーソンに於いて欠落しているのは“スキル”ではなく、“ナレッジ”と思う。何故なら、どんな業種や職務であれ特別な“スキル”は必要としていないからで、それが証拠に転職すると転職先の業種知識が無ければ最初は苦労するが、パソコンやスマホ・タブレットなどで困る事は無い。

“ナレッジ”という「点」を出来るだけ多く習得する事が、あなたの公私を豊かにしてくれます。先ずは興味関心のある事柄を深堀する事、少なくとも従事する業種の専門知識は誰よりも習得する事。

長年、その業種に従事している事で身に着く“ナレッジ”は同業他社のライバルも同等に習得しているので何ら差別化は図れない。意識的に“ナレッジ”の習得を行う事無しに個の優位性は生まれない。

是非、貪欲に「点」の習得を!