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感情コントロール出来てこそ、一流

自戒の念を込めて、「感情コントロール出来てこそ、一流」。

 

人間だからこそ、喜怒哀楽の感情が豊かである。

しかし、人の上に立つ者となれば、特に「怒り」を抑える事が出来なければ本物のリーダーにはなれない。

 

話し相手の言動が理由で“カッ”となり、怒りを抑えようと自制するもし切れず、語気が強くなったり、早口になってしまう。

予想していない事、突発的な事が生じ、動揺し、声が小さくなり、声が震える。

部下が喜んでいる事を些細な事だと思うが故に、笑顔と共に褒めてあげられない。

部下が落ち込んでいる時に共感出来ず、本気になって励ましてあげられない。

 

全ては自分が未熟ゆえに感情のコントロールが出来ない。

気持ちの余裕、時間の余裕、様々な事項の想定力、知識力等々の不足である。

それ以上に、「自分は正しい」、「自分はで出来ている」、「自分は解っている」等々、根底は“謙虚さの欠如”が自己制御が出来ていない大きな原因と言える。逆に言えば、自分に何らかの“おごり”があるという事。

 

“謙虚である”事が“自分の感情をコントロールできる”という事。

人として優れている人とは、お金持ちな人でも、有名な人でも、偉大な記録を残した人でもなく、“謙虚である人”。

 

 

「味覚」が料理の評価順位1位ではない

「美味しい」を可視化するのは不可能と言える。

「美味しい」を定義するのは不可能と言える。

「美味しい」という「味覚」は飲食店に於いて重要であるが、それが評価順位1位ではない。

 

飲食店の料理や飲物=商品の評価順位は、「視覚」⇒「聴覚」⇒「味覚」である。

 

「視覚」とは「見た目」であり、商品の盛り付けや使用している食器、量や彩もである。

「聴覚」とは「聞こえ」であり、商品のシズル感である、“ジュウジュウ”、“パチパチ”、店員による「商品説明」や「おすすめ」、更には「口コミ」も含む。

 

「視覚」と「聴覚」をおさえたのがTVや雑誌、WEBなどの媒体である。

今やWEB上でも動画の有効性が知られている通り、「視覚」を動画で表現しつつ、「聴覚」に訴えかける手法はとても効果的である。

逆を言うと、いくら店主が「美味しい」と自信を持っていても、「見た目」が何の変哲もないありふれた状態であったり、「聞こえ」が何もなく、店員はおすすめも説明もしなければ、お客様が「味覚」だけで、それを「美味しい」と判断する事はほぼ不可能である。

 

某TV番組の“芸能人格付け”が示す通り、「味覚」とは千差万別である。

「高い」から「美味しい」、「有名店、有名シェフ」だから「美味しい」、「豪華に盛り付けてある」から「美味しい」等々、正に「視覚」と「聴覚」で以て「味覚」以前に商品判断をしている顕著な事例である。

 

「視覚」、「聴覚」、「味覚」いずれも“感覚”である。

よって、一つの正解は無い。

しかし、“時流”はある。

それぞれの時代に、それぞれの年代が評価・支持する“感覚”。

これを如何に捉えるのか?

この点が一つの繁盛に必要な条件である。

 

鈍感さやヌケているところがある方がいい

リーダーとなれば人を従えて先頭に立つ、それ故に完全無欠で聖人君子的な像をイメージしがちかも知れない。

名経営者の著書等を読むと、強くこういった印象を受ける。

このイメージが間違えている訳ではなく、この通りになればいいのだが、なかなかどうして、こうなるのは難しいものである。

私が思うのは、ここまでの’The leader’でなくても、歴史上の人物含め、過去にはこのタイプのリーダーがリーダーとして描かれてきて、先頭に立ち、強い統率力を以て“引っ張って”来たに違いない。

 

このタイプのリーダーの「欠点」という言い方を敢えてするならば、「ついて行く人が限られてしまう」、という事。

リーダーは全く悪気も押し付けも無いのだが、ついて行く人が自ら勝手に「自分はダメだ、出来ない」と考えてしまい、脱落ないしは諦めてしまう。

この事象で懸念する事は、ついて行く人が「自己嫌悪」や「挫折感」を味わってしまう事。

リーダーが強すぎるために生じる表裏一体のマイナス効果。

 

私の周囲のリーダーにはこうではないタイプのリーダーが多い。

例えば、常に「心配だ」、「不安だ」、「大丈夫かな?」、「どうなるだろう?」等とネガティブワードを口にして、その周囲がイラつくほど「意思決定」に長時間要するリーダー。

他にも、複数の飲食店経営をしているにも関わらず、現場経験は一切なく、自分で料理を作ったことがなく、唯一、カップラーメンだけなら作れるというリーダー。

等々。明らかに冒頭のタイプのリーダーとは全く異なったリーダーである。

 

こういったリーダーの組織で起きる事は、部下たちがリーダーの弱点を克服すべく、率先して動き、考え、提言する。

大げさに言えば、勝手に部下が育つのだ。

部下たちに肩を担がれ、時には彼らに激励され、引っ張ってもらっている様なリーダー。

 

友人経営者が講話の中で上手にこの異なるリーダー像を表現している。

「少年ジャンプに描かれているリーダー・ヒーロー像は時代によって大きく異なります」、「昭和世代は完全無欠、先頭に立つリーダー・ヒーローが描かれていました、がしかし、平成世代は欠落多数の支えてあげなきゃいけないリーダー・ヒーローが描かれています」。

どちらも、“仲間の友情”、“勇気・愛・正義”、“一つの事を成し遂げる”といったことを描いているのだが、その主人公のキャラクター性が真逆と言っていい。

 

「鶏と卵」の関係が如く、部下の価値観や思考の変化がリーダーを変化させているのか、新たなリーダーの出現にそれを慕う部下が集まるのか?

どちらが「正解」という事は無い。

思う事は、“強い”リーダーであることは必要で、それは“自分に強い”リーダーであって、“他人(部下)に強いリーダーは”時代に求められていない。

意図してもしなくても、完全無欠ではなく、見て見ぬふり、無知さや鈍感さを自覚した上で部下に任せ、人間味を感じるよう間抜けさや少々のチョンボがあるリーダーの方が時代に適している。

働き方改革は休業日を設ける事から

コンビニエンスストア・一部ファストフード・ファミリーレストランの24時間営業。

商業施設・スーパーマーケット・一般飲食店の年中無休。

レジャー型サービス業の24時間営業。

百貨店は近年正月営業を見直し。

 

日本のコンビニエンスストア開業は1973年と言われているから、足掛け約45年、今日に至るまで24時間365日営業が小売店や飲食店の“当たり前”になってきた。

その背景には、2010年前後の最大値まで人口は増加傾向なので消費は理論上比例して増加傾向。更に、それまでに存在していなかった24時間365日営業と言う利便性が鶏と卵の関係の如く、人々の生活様式変化にマッチした。

この利便性に慣れてしまった消費者はこれが“当たり前”と思い込んで今日に至る。

 

2010年前後以降、人口数は下落に転じ、少子高齢化状態突入。それに伴い労働人口減少。一方で各業種での異常なまでの出店合戦による店舗の乱立、そして供給多過による淘汰。

明らかに人口数及びその年齢構成を背景とする市場性は変化した。

 

「働き方改革」は雇用する店や会社が雇用環境・条件をより良く改善する、店や会社側だけが取り組む、といった面で捉えられがちではないだろうか?

 

雇用者も労働者も消費者である。

消費者として、従来の“当たり前”を見直し、少々不便と感じる社会を受け入れる前提なしには「働き方改革」は実現しないと思う。

私に言わせれば、「働き方改革」ではなく、「生活の仕方改革」と銘打たなければ、国民一丸となり目指す状態に至らないのでは?と強く思う。

 

店が開いていなければ前もって購入するなり段取っておけばいいだろうし、違った時間の過ごし方を考えればいいだろう。

「生活の仕方改革」とは「生活の仕方」を“考え直す”という事。

“不便”、“不自由”はそれを解消するため“考える”チャンスが来たという事。

“考える”事無に人間は進化・変化しないはず。

 

 

社長だからと言って経営能力があるとは限らない

“社長”と聞けば、「すごい」、「偉い」、「立派」、「お金持ち」、「遠い存在」等々の形容詞が出てくるかと思う。

人は“社長”と名乗る人に一定な思い込みがあるようだ。

 

表題の通り、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」のである。

私の経験値では、多くの社長が中小企業の創業者であるが、それらの方々の共通項は“トップセールスパーソン”という事。

言い換えれば、一組織人だとすれば、「他人に圧倒的な差をつけるセールス能力を持った人」である。

 

なので、中小企業の社長の多くは走り歩いている。

正確に言うと、「創業期は」である。

違う言い方をすると、創業10年以上経過しているにも関わらず、社長自らが走り歩いている状態の会社とは、社長が自分の会社組織をつくれずに、創業期のまま今に至っている、と言える。

これが、「社長だからと言って経営能力があるとは限らない」という事である。

 

セールス能力と経営能力は異なる。

セールス能力は、「話し上手」、「相手心理を見抜く力が長けている」、「交渉力がある」、「頭の回転が速い」、「気が利く」等の言葉が問われる。

経営能力は、「全体を見通す能力がある」、「我慢強い」、「継続力がある」、「謙虚である」、「感情を抑えることが出来る」等の言葉が問われる。

セールス能力と経営能力の根本的な違いは、その能力を前者はお客様(社外)に向け、用い、後者は社員(社内)に向け、用いるのである。

なので、会社に居る時間が短かったり、役員や社員と話す時間より社外の人と話す時間が多い社長の会社は、殆ど多くの場合、「社内がガタガタ落ち着かない」、「いつも同じ様な内容でトラブルが起きる」、「社員定着率が悪い」と言った事象が起きている。

要は、会社をつくり切れていないのである。

自分の会社は役員つくるのではなく、社員がつくるのでもない。社長自身がつくる以外ない。

にも関わらず、「売り上げが無くなったら会社はつぶれる!」と言い張り、ひたすらトップセールスに走る。

 

繰り返しになるが、業歴10年以上経過し、いつも新しいことを行うも数年間売り上げも利益も大きく増加も現象もしない、しかし、社員は定着せず常に入れ替わりがあり、いつも同じような事ばかり起きている、と言った会社は社長に経営能力が無いと判断していい。

以前、記したように、「人を肩書で判断してはいけない」のである。

 

”気付く”という能力は先天性

「床に落ちているゴミに気付く」

「お客様の要望に気付く」

「相手が言わんとすることを気付く」

「自分の間違いに気付く」

「場の空気に気付く」

 

“仕事が出来る人”、“サービス精神が旺盛な人”、“頭がいい人”等と形容される人の共通項の一つとして、「気付く」という能力が長けていると思う。

よく質問される事の一つがこれで、「どうやったら気付けるようになりますか?」

それに対する私の回答は、「“気付く”という能力は先天性なので無理です」

そうすると、「えっ!?」

 

多くの事に気付ける人にとっては当たり前に自分が出来る事なので、出来ない人を不思議に思う。無理もない。

しかし、この“気付く”をトレーニングするには四六時中強く“気付くべきことを意識し続ける”という事が必要となる。

こんな事、実現可能と思われるでしょうか?

 

厳密に言うと、無意識の上で“気付く”という事が先天性の能力。

だから、どうしようもない。

性格の違いと同様の理解をし、相手に自分同様の“気付き”を求めることなく、相手と接し動かしていく他ない。

義務と権利を明確化することが企業への第一歩

私は「企業」の反対語を「家業」と定義する。

これは辞書的な意味としては間違えているのは承知であるが、一般的な言葉の感覚的概念からして、こう定義付けるのがわかりやすいと思うことから、こうしている。これを前提に述べていきたい。

「企業」という言葉を聞けば、売り上げ規模や店舗数、事業所数など、規模が大きい会社の事を指すように認識されていると思う。逆に「家業」は家族や親近者で事業を行い、その規模が小さい状態を指すように認識されていると思う。これまた感覚的であり、辞書で調べると全く異なる内容が書かれている。

言いたいことは、規模の大小が「企業」と「家業」の違いではない、という事。私の定義は「仕組みの有無」が「企業」か「家業」の違いである。

その「仕組み」とは、多種多様なルールや基準である。パソコンで行われる受発注や勤怠、社内ネットワーク、売上管理などのシステムと言われる物も同様で、現場レベルではマニュアルも「仕組み」と言える。

これらの「仕組み」があるという事は、“属人的”ではない状態を作り出していると言える。但し、業務全てが「仕組み」になる訳はないので、出来るだけ多くの事柄が仕組みになっていれば「企業」と言えるのである。

逆に「家業」は殆ど多くを“人海戦術”や“手作業”=アナログで行っている状態が見受けられる。誤解してはいけないのは、これらをシステムに変える事だけが「仕組み」とは言えないのである。

「家業」にとって、最も欠落している「仕組み」は会社(経営者)と社員(従業員)にとっての「義務と権利」の明確化である。

具体的にいうと、社員の権利は会社の義務と言え、一方、社員の義務は会社の権利と言え、共に表裏一体である。

社員の権利として代表的なのが、「有給制度」や「給与体系」と思いがちだが、実は「労働基準法」。一方、会社の権利として代表的なのが「就業規則」。

「就業規則」とは、先述の「有給制度」や「給与体系」を含むもの。これは「労働基準法」に則った上で、それぞれの会社が独自に定めるルール・基準なので、会社の権利となる。

ありがちなのは、社員にとって最も身近で関心のあることを優先的に整備し、結果的に会社は“社員の権利を明確にした”と恩着せがましく言うに留まり、“社員がすべき事(=義務)”を明確にしていない状態。

では、“社員がすべき事”とは一体何か?

分かり易く言うと、業務上行う動作・作業・行為であり、社員が身に付けるべき「スキル(技術・技能)」と「ナレッジ(知識・情報)」である。

これらを「マニュアル」や「テキスト」と呼ばれる物に“書き換える”必要があり、書き換えれば「仕組み」と言える状態になる。

例えば、一般社員から1ランク昇格すると主任になるとして、主任に必要な「スキル」や「ナレッジ」は何か?が明確になっているという事。その為には、実務(動作)テストや筆記テスト等で、その有無を確認する必要がある。テストにしている状態こそ「仕組み」である。

そもそも、入社試験など無く、面接を受ければ容易に入社が可能な業種や会社では社員とPA(パート・アルバイト)の区別など全くと言っていいほど無いので、一般社員の定義が存在せず、とてもややこしく思いがちであるが、所謂、入社試験と言うものは会社が求める・必要とする社員としての「スキル」や「ナレッジ」の最低限度を定めることを意味するのである。そして、定める事も、「仕組み」と言える。

「仕組み」と言うものは、言い換えると「手間暇のかかる」、「頭をつかう」、更に、それは「書類化」する、イコール「可視化する」という事である。平たく言うと、とても“メンドウクサイ”事をしなければ、組み立てられない事なのである。

“とてもメンドウクサイ”だけに中小企業は「仕組み」が少ない。逆にいうと“属人的”で多くを人の記憶や判断に頼っている。要はメンドウクサイ事を避けたり、先延ばしにしているのである。

目先の“メンドウクサイ”によって、社員との関係がギクシャクしていないだろうか?離職率は高くなっていないだろうか?優秀な人材は辞めて行ってはいないだろうか?会社は着実に成長しているのだろうか?トラブルやクレームは大抵同じような内容ではないだろうか?

経営者が自らの立場を誤解し、「“メンドウクサイ”は社員が行う事」と思っていたら、それが会社の最大の課題!

経営者は経営者として“メンドウクサイ”事に取り組まねばならない!それは決して社員が行うのではなく、行える訳もない。

経営者はそれ相当の能力を有しているからこそ、経営者であるはずなので、万一、“メンドウクサイ”事に向き合わなかったり、結論を見いだせないようであれば、「経営者の能力ナシ」と言えるので、自発的に降りるべき、または指名した人は即座に適当な人物に変更すべきである。

もう少しいうと、経営者=役員であるにもかかわらず、日々行っている内容が「実務」であるならば、それは「名ばかり経営者」と言う。経営者であるならば、実務を自らが行わなくてもいい状態にする能力(=物理的人員面と金銭面の両面で)が当然に必要である。それが出来ないなら、それも「名ばかり経営者」と言う。

「義務」や「権利」イコール、各種制度や基準やルール。細かい点で言うと業務(実務)マニュアルから各種書式設定など、多種多様、大小問わず、自ら書類化するものもあれば、士業と言われる各種専門家と手を組んで作成する場合もあり、具体的指示をして社員に書類化させることが経営者の経営と言う重要な仕事の一つである。(敢えて言っておくが、士業にせよ社員にせよ、「やっておけ」というのは大誤解である。経営者が主体的に考えたことを始点に始めるのが当然である)

「義務」と「権利」が明確になるという事は、「仕組み」が確立したという事になる。そうすれば、これまで時間や頭を取られていたことが嘘のようにスッキリと減り、生産的な将来的な事項に集中したり時間を費やすことが可能となるのである。

逆を言えば、何年も何度も同じような事を繰り返したり悩んだりしているという事は、時間だけ過ぎていて、本質的な事は何も解決されておらず、変わっていない証拠と言える。

それが嫌なら、経営者は経営者としてしなければならない“メンドウクサイ”「義務」と「権利」を出来るだけ多く明確化すればいいのである。

「家業」を「企業」にするのか、出来るのかは社員ではなく、経営者の能力にかかっている。今一度言うが「企業」とは「仕組み」が存在する会社の事を指す。血縁親族以外の人が、それ以上多く存在していたり、規模が大きくなって行くと「家業」の実態では立ち行かなくなるのが必然。

経営者の役割を果たせぬ能力の人が経営者になっているなら、その会社は必ず崩壊するか、良くて一定規模どまりで恒常的に同一の課題を抱えて疲弊状態である。

脱却する方法は2つ。1つは経営者を交代させる。1つは経営者の勉強を行い、果たすべき役割を果たせばよい。至極、単純な事である。

最後に当然のことを言えば、会社を良くするも悪くするも経営者。会社を大きくするも小さくするも経営者。社員を幸せにするも不幸にするも経営者。

 

完璧主義者ではなく全力主義者であれ

ある程度、私を知る人から「完璧主義者」と言われることがある。それに対し、必ず私は「全力主義者です」と答える。

私の感覚では、「完璧主義者」と形容されることは、殆どの場合、褒め言葉と言うよりも、皮肉や嫌味を込めている言葉として受け止める。

私は妥協や中途半端、いい加減、適当等に当てはまる事が嫌いである。そんなことから、言動がキツかったり、強かったり、冷たいと感じとられることがあるのだと自覚している。

そんな事から、「完璧主義者」と言われる所以があるのだろうが、万事、「全力主義」と以て言動がある。

こと、仕事に於いては、その時、その機会、その日の自分の持ち得る能力を最大限発揮し、“ベストを尽くす”という想いである。

後日、振り返れば、その日の事が未熟であったり、異なっていたり、間違えている場合もしばしばである。しかし、“ベストを尽くした”という自分の「納得感」があるので、決して「後悔」はない。

むしろ、自分の進化や変化、成長を認識するという考えに変えている。

「完璧主義」とは一個人だけの事であれば、それを追求し実現する事は可能であるだろう。しかし、それを組織や他人に持ち込んだり当てはめると反発は必至で、実現はおろか、何よりも自分自身が苛立つ最大の原因となり、組織や他人との関係性を大きく揺るがす事になる。

しかし、妥協すると言う答えに辿り着くのではない。

組織や他人それぞれの目的や目標、ゴールに辿り着くという事が最も重要である。そして、そこに辿り着くための「最大の努力を尽くす」という事を関わる人全てで行う事である。

逆に言うと、それぞれの最大を尽くすことを怠っているのであれば、それは指摘したり、叱るべきことである。但し、尽くすべき最善は画一的且つ統一的なものとは限らないという事を承知しておく必要がある。

この事は特にリーダーが認識しておかねば、大きなやる気が周囲から反感や顰蹙を買い、真逆に作用する事になる。

常に最大を尽くす心があれば、その時々、日々が充実したものとなり、時に反省となって明日への戒めにもなる。

加齢と共に最も恐れるべきこと

人に物事を教え伝える仕事をしていて常々思うのは、「人は何歳になっても進化・変化・成長を止めないことが最も重要である」という事。言い換えると、謙虚さ、素直さ、勤勉さ、向上心等の言葉を忘れることなく言行一致させるということである。

逆にいうと、自分は出来ている、知っている、わかっている、満足している等と、その時々に“慢心する”という事。この状態を他人は「あの人は凝り固まった考え方だ」、「意固地になっている」、「昔と変わっていない」、「聞く耳を持たない」等と表現する。

この悲しむべき状態は当人は認識しづらい。人に指摘されるなら幸運と言えるのだが、この状態の人は他人に指摘されることを嫌い拒絶しがちなので、結局、聞き入れる訳もなく、変化する事は無い。

人は年齢を重ねると、自分の望む地位や給与、生活などを得て、充実感に満たされることがしばしばである。そして、それに至った自分自身を認め、評価したくなるものである。

そうすると、そこに至ったプロセスを忘れ“止まって”しまいがちである。

能力がある故に、自分の現在の地位や環境を的確に捉え、更に組織の一員であれば、更なる出世の可能性の有無も見通せてしまう。

そんな心が仕事面で生じてしまうも、プライベート面ではそう陥らず、進化・変化・成長しているならば、人としての歩みは止まらないと言える。

しかし、時間の大半を仕事に割いてきたからこそ、得た地位や環境を急にプライベートに裂くと言う事は決して容易ではない。むしろ、得た地位や環境を維持する為には、従来同様、またはそれ以上に求められることが生じる。だからこそ、更なる進化・変化・成長が困難である理由を並べたくなる。

仕事と言う貴重な時間を多く裂く中で、人として進化・変化・成長する機会は多くある。しかし、一般論、仕事は一生涯行う事は無いので、仕事する時間がポッカリ空いた時に人としての進化・変化・成長機会はなくなりがちなので、「定年すると様々な事が老ける、衰える」と言われているように思う。

強く認識するべきことは、進化・変化・成長は“自分の意識でしかコントロールできない”=人が何かしてくれることはないという事。そして、進化・変化・成長は“遅い早いは関係なく、とにかく止めない”=人と競わずマイペースで行くという事。更に、進化・変化・成長は“目的と目標を設定する”=根性論や闇雲に行わないという事。

わかりやすく言うと、一度きりの自分の人生の目的を立て、時にそれを変えても構わず、立て続ける事。そして、それに向かってマイペースでコツコツと大なり小なりの目標をクリアーし、自分を褒めつつも歩みを止めない事。結果は死ぬ瞬間にしか出ず、その結果を自分が納得できるかどうかだけ。

 

 

 

スキルよりナレッジを習得すべき

先ず、“スキル”も“ナレッジ”も人の能力である。

巷では“スキル”と言う言葉が多用されている。敢えて言うなら乱用されているように思う。特に仕事に関する話には、やたらと“スキル”という言葉が使われがちである。

“スキル”とは「技術や技能」がその語彙である。言い換えると「動作」であって「目に見える」。

パソコンソフトであるエクセルやワードを操作するスキル、スマホやタブレットを操作するスキル、フォークリフトやユンボ(パワーショベル)を操作するスキル、といった用い方がわかりやすいかと思う。

先述通り、“スキル”は「技術や技能」なので、よって、初めは誰だって、どんな事だって不慣れだから下手で上手くいかない。しかし、繰り返す事によって熟練され、その能力が高まってくるものである。逆にいうと、繰り返さなければ高まる事は無いと言える。

“ナレッジ”とは「知識や知見」がその語彙であるが、私はこれに「情報」も加えて語彙と説明する。こちらは“スキル”と違って「目に見えない」。

 

“スキル”と“ナレッジ”の関係は“スキル”が「線」で“ナレッジ”が「点」とするとわかりやすい。

「点」が3つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は三角形「1つ」である、「点」が4つあり、それらを「線」で繋いで出来る図形は四角形や三角形など、少なくても「4つ」である。

共に、出来た図形を「業務対応能力」や「コミュニケーション能力」とすると、「点」が多い方が出来る図形の数が多いので、能力が高いと言える。

要は、“スキル”は“ナレッジ”によって活かされるものである。だから、“スキル”よりも“ナレッジ”を習得すべき、と言うのである。

もう少し説明すると、“スキル”は「線」なので、この説明で言うと“スキルが高い”は「線が太い」となる。よって、「線」がどれ程太くても、「点」が少なければ、シッカリとした三角形は出来ても、数は1つでしかない。この状態を平たく言うと、単なる「おしゃべり上手」である。

おしゃべり上手のセールスパーソンは一見するとデキる奴に見えても、話し込んで行けば無知が露呈すると逆に反感を買ったり、痛々しいものである。

“スキル”は「高く」、“ナレッジ”は「多く」である。

“スキル”は繰り返し繰り返し、何度も何度も「動作にする」事で高くなる。“ナレッジ”は先ず出来るだけ幅広く自分に取り込み、そして繰り返し繰り返し、何度も何度も「話す」事で「多く」なる。“ナレッジ”を多くするには二段階のプロセスが必須である。

私が知る限り、所謂、会社勤めをしているビジネスパーソンに於いて欠落しているのは“スキル”ではなく、“ナレッジ”と思う。何故なら、どんな業種や職務であれ特別な“スキル”は必要としていないからで、それが証拠に転職すると転職先の業種知識が無ければ最初は苦労するが、パソコンやスマホ・タブレットなどで困る事は無い。

“ナレッジ”という「点」を出来るだけ多く習得する事が、あなたの公私を豊かにしてくれます。先ずは興味関心のある事柄を深堀する事、少なくとも従事する業種の専門知識は誰よりも習得する事。

長年、その業種に従事している事で身に着く“ナレッジ”は同業他社のライバルも同等に習得しているので何ら差別化は図れない。意識的に“ナレッジ”の習得を行う事無しに個の優位性は生まれない。

是非、貪欲に「点」の習得を!

 

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