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『飲食店番頭塾』とは、
『飲食店番頭塾』とは、 ■■■企画背景■■■ 厳しい市場環境の外食産業。 トップのビジョンと、それを実現させる番頭の実行力、この両輪があって企業は初めて機能する。 第1回 番頭は、「あげまん」であれ
ゲスト/株式会社イデア 専務取締役 菅野功さん
経営を論じる際、とかくフォーカスされがちなのは経営者である。 しかし、発展を続けている企業の秘密を紐解くと そこには常に優秀なNo.2の存在が見え隠れしている。 我々空間計画の初の試みとしてスタートした「番頭塾」では、 そのトップバッターとして菅野功さんを指名させていただいた。 氏は、我々が考える「No.2」のあるべき姿を体現している経営幹部のお一人。 氏個人のルーツをたどりながら、優秀なNo.2とは何かを探る。 そして、「強い組織づくり」を目指す二番手の思考回路を読み解いていきたい。 聞き手/野口信一(空間計画株式会社) 構 成/中野豊栄(空間計画株式会社)
■「変り種オーナー企業」 まずは、菅野氏が所属する株式会社イデアは、大阪本社の優良企業。経営者が少し変り種で、オーナーの淀井勉氏(本文中では「大将」)は現役のパイロット。そしてその奥様が代表取締役の淀井三智氏(本文中では「三智ねえさん」)。この「宮崎地鶏炭火焼 車」のルーツは、奥様のお母様が地元宮崎で営んでいた鶏の専門店。当時、パイロットになるために宮崎の航空専門学校に通っていた淀井オーナーが、宮崎の地元メディアでアナウンサーとして勤めていた三智さんと出会う。そのときに三智さんに連れて行かれたのが、お母様が営んでいた鶏の専門店。しかし、当時の淀井氏は大の鶏嫌い。その淀井氏が、「うまい!」と感じたのが現在「車」の名物である「もも焼き」だ。その後、淀井氏、三智さんは結婚し、淀井氏は大阪にこの「もも焼き」の専門店を開業する。それが、「宮崎地鶏炭火焼 車」である。そのときには、お母様も大阪へ呼び、当初の「車」は、お母様がお店に立ち、「もも焼き」を焼いていた、という歴史があるのだ。 大阪のイチ個人店としての創業から、現在の規模まで成長したイデア。現在話題の外食ベンチャーと比べるとゆっくりとした足取りにも見えるが、確実に一歩一歩成長してきた感のあるイデア社。オーナーの熱い思いと、それを実現するために着実に前に進む番頭の正しい姿が見て取れるのがイデアの強さだ。 オーナーには「株式公開」などの意思はない。公開することで調達できる資金とそれに伴う「不自由度」。現在の飲食店経営においてはこの「不自由度」が命取りにもなりかねない。圧倒的な判断のスピードが要求される市場状況において「不自由度」はイコール「判断の遅れ」という致命傷にもなりかねない。それを自覚し、あくまで、自己資本プラス間接金融での成長を目指す。そして、「2016年・年商100億円」を目指すという「イデアビジョン」も発表した。当然であるが、このビジョン作成にも大きく菅野氏が関与している。理想的な二番手の関与の仕方が、インタビューからも読み取れる。 菅野氏が、いかにしてこの「車」、そして淀井オーナーと出逢ったのか?それまでにどんな人生を歩んできたのか?戦い続ける番頭さんの「作り方」にせまる。
■培われた独立心 野口 この「番頭塾」は、「伸びる会社の鍵はNo.2が握っている」という私の仮説を検証するためのインタビュー企画です。当然ながら会社経営において重要なのは、経営者の思いや理念、それを実現する実行力、「人・モノ・金」のバランスなど、要因はさまざまだと思います。これまでさまざまな企業、店舗、そこで働くスタッフの方々に接してきて、繁盛の法則めいたものを自分の中では徐々に体系化しつつあります。そんな中でひとつ発見したことがあるんです。伸びている会社には必ず優秀な二番手が存在するということです。これは、経験則による部分が大きいので、私の中でも完全には体系化しきれていない。けれど、この「感覚」は間違ってはいないと確信しています。この仮説を検証し、将来の外食業界のためにも体系化しておきたいというのが、この「番頭塾」をはじめようとした動機なんですね。そこで真っ先に思い浮かんだ優秀なNo.2が菅野さんでした。本日はよろしくお願いします。 菅野 こちらこそ、よろしくお願いします。 野口 それでは、まず菅野さんの経歴からお伺いさせていただきましょうか。 菅野 1966年生まれ、41歳。福島県福島市出身。実家はタバコ屋。親父は男10人兄弟の4番目。うちの親父は4番目なのに、じいちゃんの面倒を見ていたんですよ。男ばかりの10人兄弟です。戦争で亡くなったりもしたんですが、僕の記憶に残っているのは全部で6人のおじさんたちでした。このおじさんたちというのが、実は全員「自営業」だったんです。サラリーマンが一人もいない。庭先でタバコ屋やったり、水道屋やったり、じいちゃん自身は当時、福島で3本の指に入る水道屋だったそうです。しかし、僕の親父がそれを継いで倒産。二代目で食いつぶしてしまったわけです(笑)。それを僕はずっと横で見ていて、自分としても精神的には自立していたんだと思います。小学校6年生までは、普通にお小遣いも貰っていましたが、中学校に入ってからは親から1円も貰っていないのです。 野口 おじいさんも含め、親戚一同が自営業。それが菅野少年の独立心を育てたんですね。 菅野 高校卒業後は大学へ行きたかったのですが、なんせ全然勉強していなかったもので(笑)。そんなわけで大学進学を諦め、就職することにしました。一応進学校なので、それなりの企業を斡旋してもらえるんです。そのうちのひとつが大手家電メーカーのA社。親も納得してくれ、すぐに入社を決めました。
■大手メーカー勤務で直面した、高卒の現実 野口 郷里の福島から上京してA社に入社。いよいよ東京生活がはじまったわけですね。 菅野 作業員と聞いていたんですが、行ってみたらプログラムの仕事でした。結局、半年くらいは勉強でしたね。パソコンとか、プログラムとか。昔はエクセルやワードもありません。MS-DOSとかの世界でした。画面は真っ暗、文字だけ(笑)。 その後、だいぶ仕事にも慣れてきて、1年くらいたった頃でしたかね、若い新任の部長がやってきたんです。30代前半のバリバリといった感じで、。うちの職場には班長と課長がいて、班長は30代後半、課長は40代。しかしその部長は班長よりも若い。先輩に聞くと「部長は大卒、我々は高卒。だから我々にはあの道はない。いいところ課長どまりで、退職だ」と。この話を聞いて、俺はすごいところ入ったなと思いました。自分なりに野望もありましたし、漠然と「でっかくなりたい」とは思っていました。しかし、僕の将来の姿はあの部長ではなく、班長や課長なのかと。正直、フニャフニャになりましたね。 野口 大手企業における、高卒の壁ですね。 菅野 そのときに出合ったのが「マルチ商法」でした。A社の社内で流行っていたんです。友人に誘われてアルバイト感覚で。その時、ある意味ギブアップをしたんですよ、自分の現実に。大学へいかずA社に入った。しかし、そのまま働き続けても組織の歯車にしかなれないことに気がついたんです。マルチは、少なくともやればやるだけ評価されて、内容・実績に応じて部下も持てて、キャリアアップもできて、学歴も関係ない。本当に自分次第で決まると感じたわけですよ。 野口 やっていることの良し悪し、内容は置いといて、ですね。 菅野 その時はこれほどやり甲斐のある仕事もないと思ったんです。ものの3ヶ月くらいで結果が出て。自分としてはチャレンジしてみたいという気持ちが大きかったので、退職願を提出して、本格的にマルチ商法の世界に飛び込んでいったんです。 野口 菅野さん、その当時は20歳ですよね? 下の子達というのは、いくつくらいだったんですか? 菅野 部下といっても、だいたい同じ年くらいですね。19歳から23歳くらいまで。当時はバブル全盛で。割と成績もよかったので、全国展開のためのエリア長教育をされたんです。その勉強の内容というのが、なんのことはない。理屈理論ではなく精神論なんですよ。「やったらできる!」という(笑)。 野口 自己啓発だ! 菅野 そう。まさに完璧な自己啓発セミナーでしたね。お前らにできないことは何ひとつない、と。洗脳されて、「よしいけ!」と号令されて、地方へポンって行くわけですよ。片道切符ですからね。それで、結局3ヶ月ノルマをクリアして、販社長になることができたんです。 野口 ほぉ。その当時おいくつですか? 菅野 21歳くらいですね。30人の部下を雇って、彼らの家賃、水道光熱費も全部僕が負担して。結構伸びたんです。そのときに、ある同業他社が新聞や雑誌叩かれて。とにかく、それをきっかけに一斉にマルチが「終わった」んですよ。 野口 マルチが。 菅野 そう、マルチが終わったんです。そしてマルチが終わった瞬間、僕も終わったわけですよ(笑)。結局、あれはブームだったんですね。バブルの崩壊と同じようなものです。それで、しまいにはこのマルチの会社も立ち行かなくなって、僕らは身売りされることになったんですよ。
■借金のかたに、ヤ○ザに身売り 野口 え? 菅野さん自身が……ですか?? 菅野 はい。心斎橋だか堀江のあたりに、ヤ○ザの事務所があったんです。そこに売り飛ばされたんですね。借金のかたに(笑)。で、その事務所の電話番を4ヶ月くらいですかね、やっていましたよ。 野口 えぇーっ! 菅野 あの業界も人材不足なんですよ。マルチの会長はお金がないんで、その筋の方々から借りちゃったんですね。けれど金利も払えないでいるもんだから「お前のところの若いやつを3~4人連れて来い!」となったんでしょう。で、電話番しとけと。 野口 へぇーっ。 菅野 裏の世界がわかるとね。また若手の組員や関係者の方と話す機会があって、そこからさまざまなことを学びましたね。いろんな知恵がついていくわけです。 野口 で、そのあとは? 菅野 一緒にいた仲間の3人のうち、ひとりは事務所に残ったんですが、あとひとりと僕とで「もうあかんなと、もたんな」となりまして、お手紙を書きました。「申し訳ございません」と。 野口 逃げたわけですね(笑) 菅野 逃げさせていただいて(笑)。
■お好み焼きとの出会い 菅野 僕が一番お世話になっていたマルチの先輩が、鶴橋のお好み焼き屋の二代目だったんです。その人は先にマルチをやめて、実家のお好み焼き屋を継いでいたんですよ。僕は東北人なんで、お好み焼きにはお祭りの屋台で売られているジャンクフードのイメージしかないんですよね。まぁ、はっきりいって下に見ていたんです。けれど、せっかく世話になった先輩に声をかけてもらったんで、まあ、皿洗いでもやろうかということで手伝ったんです。そこで、まかないでお好み焼きを食べさせてもらったんですね。そこで、もう感動したんですよ。お好み焼きって「こんなにうまいんだ!」と。そこからは先輩から連絡があるたびに、手伝いに行ってました。お金ももらえるし、お好み焼きも食べれるし、少しずつ、焼いたりもして、そこで、お客様が僕のお好み焼きを「おいしかったよ」って。 野口 菅野さんの焼いたお好み焼きにお客様が反応したんですね。 菅野 そうなんです。もう、嬉しいわけですよ。自分の作ったお好み焼きを「おいしい」といってもらえて。しばらくしたら今度はお客様から、「お兄ちゃん焼いてや」って、ご指名がかかったんですよ。「この前、お兄ちゃんが焼いてくれたやつがおいしかったから」。気合を入れて焼きました。楽しさに目覚めたんですね。 振り返ると、はじめて就職したA社では、ただ、やるべき作業をしていただけなんですよ。自分の関わっているものが最終的にどんな商品になったのかさえ知らない。当然ながらその商品を売っている人の顔もわかりませんし、購入したお客様の顔も見えません。お客様の満足度もわからないわけです。で、マルチ商法では、製品の良さを自分自身が納得して売っているつもりでも、結局、リベートや会社の取り分などを上乗せしている。極端な話、クズみたいなものを口八丁手八丁で売るわけです。それは、どんな商品でも変わらない。本当にいいのかな、と。 野口 疑いはじめちゃったんですね。 菅野 当時、口だけで何でも売れる自信はありました。でも、本物を売らないとダメだろうなぁという気持ちもどこかにあって。で、そのお好み焼き屋さんで体感したのは、目の前でキャベツを切って、粉を練って、卵を割って、具材を混ぜてるところもすべて見てもらい、できあがったものを「おいしい、おいしい」と食べてもらって、その場で集金もして、「お兄ちゃん、またくるよ」とリピーターにもさせて……。お客様がお店にいるわずか2時間くらいの間に、A社でやっていたことやマルチ商法でやっていたことがすべて凝縮されていたんです。これは「面白いな」と感じました。平成3年、25歳の時でした。 野口 「商品開発・製造・営業・販売・決済」と、メーカー、販社機能を、小さいひとつの箱で完結させているのが「飲食店」。そこに菅野さんはかつてない魅力を感じた。20代前半をマルチ商法に捧げて「生き方」の基本を学んだ菅野さんの、本格的な飲食業での活動がここからはじまったわけですね。お好み焼きの鶴橋「B」は、何坪何席の店だったんですか? 菅野 カウンターが詰めつめで6名、4名テーブルが4つ、2名テーブルがひとつ、24席ですね。坪数は15坪位ですかね。 野口 まさにイデアの新業態である「鉄板や かんろ(大阪・天神橋6)」と同じくらいの大きさ。 菅野 そうですね、あれより小さいですね。当時はバブル崩壊前で景気がいい。小さな店でしたが、ランチから朝5時まで営業していたんです。それで1日50~60万とか、毎日売っていたんですよ。 野口 すごいですね! 菅野 すごいんですよ、本当に(笑)。 野口 客単価は? 菅野 客単価は、2800円とか、3000円くらいじゃないかな。普通に2~3時間待ちは当たり前で、鶴橋の千日前通りがありまして、常に車が15台くらい待っていました。で、車のナンバープレートを書いたウエイティングカードをつくって、それをお客様に渡して待ってもらうんです。どなたも平気で2時間は待ってましたね。 野口 待つことが嫌いな大阪人にも関わらず。 菅野 そうなんです。 野口 もともと菅野さんが入る前からそうだったんですか? 菅野 入る前からそうでした。大盛業店です。 野口 存在自体は知っていたんですか? 先輩とのおつきあいに関係なく。 菅野 先輩の店だというので知っていて、お土産で何度かいただいていました。店は今も同じ場所にあります。リニューアルはしていますが、味は変わることなくおいしいままですね。売り上げは以前ほどではないと思いますが、弊社で展開している「かんろ」は、ここでの経験がベースです。 野口 へぇー。 菅野 僕が入ったときは3店舗。鶴橋で勉強して途中で別の店の店長に。一番小さい店でした。20席無いですね。17時~翌3時の営業時間で、40万ほども売っていました。そういう時は17時からずっと満席。こうなると、店の「回し方」が肝になってきます。ウエイティングがかかると、時間を読んで、並んでいるお客様に先にオーダーを聞く。そして時間を見計らって焼きはじめる。食べ終わりそうなお客様の様子をみながら、焼きはじめちゃうんです。並んでいるお客様のも。で、それが焼き終わる頃になると、テーブルのお客様は食べ終わっています。少しゆっくりされていたら「申し訳ありません。次のお客様が待っているんで」と伝えて帰っていただく。それが許される時代でした。お客様もわかったわかった、って感じで。とにかくすごい行列だったんでね。それで、会計して、鉄板片付けて、次のお客様が座ったら、ハイお待たせと。すぐにお好み焼きをお出しする。もう、その繰り返し。 野口 繰り返しになるかもしれませんが、外食産業に入りたくて入ったんですか?? 菅野 入りたくて入ったわけではないですね。 野口 まあ、電話番も飽きたし、と(笑)。でも、それまでは地元福島で高校生の時に「びっくりドンキー」でバイトしていた程度の経験ですよね? 菅野 「びっくりドンキー」の時も、別に外食産業が好きなわけではなく、あくまでもお金が目的でした。料理が好きでとか接客が好きでとかではないんです。時給×時間。友達来たら大盛りにするし、バイトの友達と遊んでばかりいました。 野口 なるほど。で、鶴橋では洗い場から? 菅野 洗い場やって、はじめてキャベツ切りはじめて、裏方からですね。 野口 で、自分で焼いてみろといわれて焼いてみて、お客様に出したもので喜んでもらい、感謝もされ、金も貰い、また来るねといわれて。指名までかかったら、これほど面白い商売はないと感じるでしょうね。 菅野 本当に鳥肌が立ちました。今までの人生にはない経験でしたから。マルチの時なんてクレームばかり。売ったモノに対して喜んでもらったり、褒めてもらったりなんて皆無なんです。それが、こういう世界があったんだと感じましたね。出会いがあったんです。 野口 超繁盛店の鶴橋本店で修行し、店を回すこと、段取り、効率、仕組みを考えて、要領よくやっていらしたわけですね。
■飲食業のイロハを学ぶ~外食人・菅野の根っこ 菅野 そのときのマネージャーがいるんですけれど、まあ、社長ですね、今でも焼いていますけれど。その社長の妹さんがいて、「接客とはね」とか、飲食業界のイロハをその人に教えてもらったんですよ。いまだに、その通りだなと思っていることあります。「1組1組じゃなく、一人一人じゃなく、一品一品に対する想いだよ」、「1日の仕事じゃなく、1時間の仕事じゃなく、1分じゃなく、その瞬間の仕事だよ」という言葉。ずーっとこれをいわれ続けていたんですよ。今うちの大将(淀井オーナー)もいいますけれど、100人前焼いて、そのうち1人前くらいは「手を抜いてもいいわ」なんて絶対にいかん、と。ちょっとはいいかなと妥協して出した料理が、食べた人にとっては「B」の料理になるんだよ、と。だから、その日1日、その1個1個、1枚1枚のオーダーに対して、常に100%の思いで接客をし、調理をし、仕事をしなさい、と。それが今でも僕の根底にあります。 野口 なるほど。入社した当時、他のスタッフさんとの関係づくりにも苦労されたのでは? 菅野 入社した時は、僕が一番年上だったんですよ。全部年下の店長、リーダー、主任。僕が25で、他のみんなは10代。大体が生意気でね(笑)。それこそ、年食ったやつが後から入ってきたぞ、こき使っとけ、という感じだったんじゃないかな。そこで、僕は決めたんです。1年でこいつら全員に「さん」づけで呼ばしてやろうと。当時、僕はみんなを敬語で呼んでいたんですが、僕のことは「かんちゃん」ですよ。1年で「菅野さん」と呼ばせてやるぞ、と。 野口 そのとき、なぜ、そういうふうに思ったんでしょう。仕事振りを認めさせようと? 菅野 そうですね。こいつらに敵うものってなんだろうと考えたんですよ。はじめて飲食業界に入って、はじめて粉を練って、はじめてテコ(ヘラ)を持って。勝てるものは何も無いな、と。唯一勝てるとしたら、この6年の人生経験しかないな、と。彼らは生意気ですが、別に悪い子たちじゃないんです。一生懸命に頑張って、お客様に喜んでもらおうという意識はベースにある。だから、この子たちが大人としての常識、見識、経験を身につけることができたら、絶対に良くなるだろうと思いました。A社の時は組織が嫌だったんですよね。組織の歯車のひとつとして働いて、人生が終わってしまうのが嫌だった。それで、マルチでは組織に入るのではなく、自分自身が全体を動かすような形にしたかった。ただ、よくよく考えると結局ひとりでは大きな歯車は回せません。本当に大きなことを成し遂げたいと考えるのなら、やらなければならないのは組織づくりなんだと痛感しました。マルチ商法時代に学んだ組織のつくり方、人材の育て方を、この若い子たちと一緒にやれば、絶対この会社は大きくなるだろう、と。それで、A社で否定していた組織をつくろうと。ただ、この店には組織なんていうものは無かったんですね。女性マネージャー以下、みんな横並びなんです。マネージャーの人柄だけで納まっていたんですよね。ただ、それだと3店舗が精一杯。これが4店舗5店舗になっていくと無理でしょう。目が離れ、モラルが低下し、商品がぶれる、そうならないためには、組織だと。 野口 なるほど。そういうことに気付き、行動したんですね。 菅野 実験ができたんです。1年たって店長になってからは結構可愛がられ、提案したことは何でも「やってみろ」といわれました。マニュアル、レシピ、日報など、浮かんだアイデアをいろいろ実践しました。野口 ちなみに、マニュアルとかレシピとか、そういうい葉って、どこで学んだんですか?? 菅野 そうですね。当時マネージャーだった、社長の妹さん(三女)。この人が勉強熱心な方で、僕にもいろいろと教えてくれたんです。完全な家族経営で、5人兄妹で、マルチの先輩だった長男以外は全部女性。先輩が好き勝手放浪していた間に妹4人がしっかりとお好み焼き屋を盛り上げていたんです。 野口 知識をつけてくださったんですね。 菅野 そうですね、基本的に独学でしたが。ただやっぱり、A社でも、マルチでもそうだったんですが、しくみがないと物事は進まないんですね。僕からすると、マニュアル、レシピも、物事を進めるためのしくみの一部なんです。だから、朝、店に出勤したらこうしようとか、お好み焼きを焼く手順はこうしようとか、しくみを体系化して、今でいう「可視化」して、共有してということを、我流でやったんですね。それをマネージャーに話すと、すんなり理解してもらえました。今まで口伝えでやっていたことを、こういうかたちでやるのも悪くないわね、と。
■思わぬ「お家騒動」の果てに 野口 入社当時で3店舗ですよね。 菅野 そうですね。そこから6店舗くらいになりましたかね。その時に事業に加わったのが、次女の旦那さんでした。もともと不動産業をやっていて経営というものを知っていたんでしょうね。「おれに任せろ」という感じで、いろいろ口出してきたらしいんですよ。やがて、大元締めの会長と、この次女の旦那とが揉めて、ぐちゃぐちゃになるんです。会長は大きくなることをよしとしない。次女の旦那は「事業を大きくしないでどうするんだ」と。結局、袂を分かち分裂したんですよ。鶴橋含め最初の3店舗は本家、それ以外の店舗を次女の旦那が引き継ぎ、会社が二つになったんですね。会長のほうが“守る派”。次女の旦那が“攻める派”で。で、僕は攻める派に入ったんです。当時隆盛したFCシステムを独学で学び、僕自身はFCオーナーの立ち上げに全国を飛び回る毎日。一気に多店舗展開を果たしました。 野口 それは自らの意思で? 菅野 はい。どっちにすると聞かれたんですが、やっぱり攻めるほうが面白いじゃないですか。三女のマネージャーも“攻める派”にいたんですよ。順調に伸びていきまして、北は関東・静岡にも店があって、南は下関まで。地方のFCは僕の担当。オープン前にオーナーさんは大阪に来てもらって、1ヶ月現場研修。その間に店の内装工事を行い、店が完成したら現場にオーナーさんと一緒に入って、オープンの研修、立ち上げをやる。オーナーさんの家に泊まりこみで1ヶ月間。状況に応じて延長することもあるんです。最長で3ヶ月くらい。まったくの独学でしたよ。おいしいお好み焼きは焼けるけれど、教育とか研修とかまったくわからない。販促も理解していなかったですからね。各地のオープニングにそんな感じで関わりあいながら、ノウハウを蓄積していきました。 野口 当時で27歳くらいですか? 菅野 そうですね。ちょうど子供が生まれた頃だったのではっきり覚えています。 野口 なるほど。順調に伸びていったわけですね。 菅野 ところが、失敗するんです。バブルが崩壊して、100円マックが登場した。そこに乗じて、社長も「100円お好み焼き」とかやっちゃったんですよ。当時、なんばのNGKの1階とかにも店があったんで。繁盛していたんですよ。それをもっと良くしようと。 野口 それは、次女の旦那さん? 菅野 そうです。今はデフレだからと。マックに乗っかって、「100円お好み焼き」ですよ。当然売り上げも半分ですよね。 野口 もともと売り上げあった。客数は目一杯だった。単価下げてしまったら売上は下がるだけ。単純な話ですよね。 菅野 そうなんですよ。それで、やればやるほど駄目になっていって、最終的に“バンザイ”しちゃったんですよ。 野口 倒産させてしまったんですか? 菅野 僕は経理とか全然わからなかったんですが、経理の子が「社長と連絡が取れない」と、えらくうろたえていたんですよ。「携帯は?」とかいっても、「つながらない」と。良く聞くと、「手形が……」と答える。僕は「手形って何?」って話ですよ、当時は。「期日に手形が落とせないと倒産するんだよ」とはじめて知りました。でも1回目は飛ばしてしまったものの、その後は何とかなって。金策がついたんですよ。 野口 2回目を飛ばしちゃうと、いよいよ、ですね。 菅野 結局2回目も飛ばしちゃって。蓋を開けてみたら、半年ほど店の家賃は払っていない、事務所の電気・ガス・水道代も払っていない。やがて事務所の電気が本当に止まってしまいまして。それでも、なんとか、社員やアルバイトの給料は払っていたんですよ。現金かき集めても、全員の給料の半分にも満たない。給料袋に現金を入れ、事情を説明しながらみんなに配ったんですよ。 野口 えぇっ!? 菅野 もうびっくりですよ。電気が止められているから店内が暗いわけです。とても営業なんかできる状態ではなかった。有限会社を設立して、そこに一店舗だけ移して、後は全部放り投げです。倒産、自己破産、会社清算。最も困ったのはFCさんへの対応なんです。「ロイヤルティーはいりません。しかし、うちもお金が無いので指導にはいけません」と。説明に追われました。そして、もうひとつ大変だったのが材料の調達ですね。麺も粉も、ソースも調味料も、ほとんどオリジナルでメーカーにつくらせていましたから、そういうのもすべて製造がストップされてしまいました。けれど、それではFCさんが困ってしまうので、メーカーさんとFCさんの間に入って、メーカーさんには「私たち直営店は煮るなり焼くなりしてください。でも、FCさんに罪は無いので、なんとか現金払いで納品してもらえないか」と交渉したんですね。FCのオーナーさんにも「屋号は好きに変えてくださって結構です」と。「今のまま続けるもよし、代えるのもよし、お好きにしてください」と。 野口 名前は「B」だったんですか? 菅野 「B」です。とにかくお詫びをしながら「自由にやってください」とお願いして回りました。けれど、そこは、オープンから泊り込みで一緒にがんばったFCさんたち。ありがたいことに、逆に僕のことを心配してくれたんですね。そこからは、残った1店舗の売上から支払いから全部僕が預かって、社長も一切抜くことなく、再び軌道に乗りはじめたんです。なんとかボーナスも払えるほどに売上も上がって、社員旅行に行けるほどになりました。そんな時、例の“守り派”の本家からチャチャが入ったんです。「「B」の名前はうちの商標だ。何勝手に使っているんだ」と。 野口 でました、商標権問題! 誰かに入れ知恵されたんでしょうね。 菅野 そうでしょうね。ただ、もう既にその時点では他人なわけです。社長が手を引き、一切の血縁も無いんです。こっちの会社が飛んで、本家に対して迷惑をかけていたことはわかります。イメージの部分とかね。でも僕らは生きるために必死でやっていたんですよ。喧嘩をしようとも思わない。それをいまさら何をいうんだ、って気持ちでした。「じゃあもういいです。僕は手を引きます」と伝えました。残っている社員もいるし、そいつらで店は何とかなるし「あとは好きにやってください」と。けれど条件を出したんです。社員には年末にボーナス払うといってあるので、それは確実に遂行して欲しい、と。それで辞めたんです。 野口 で、ボーナス支払われたんですか? 菅野 あとで聞いたら「貰ってない」と(笑)。「話が違うだろう」と先方に乗り込みました。そもそも僕自身も退職金を貰ってなかったんで、「倒産を乗り越えてこの店を何とかやってきたんだぞ!」と主張しながら150か200万円くらいを確保して、そこからみんなにボーナスを支払ったんです。 それから業者さんや常連客の皆さんに「一身上の都合で退社します」とご挨拶のハガキを出したんです。200通くらいだったかな。その中の1枚に、今のイデアの大将(オーナーの淀井勉氏)が入っていたんですよ。 野口 へぇーっ! 菅野 つまり大将とは、「B」からの付き合いです。今、弊社の鈴木(現:取締役)が入社15年目なんですけれど、僕は、大将とは17年くらいの付き合いになるんですね。会社の在籍は2番目に古いんですが、大将との付き合いは一番古いんです。
■大将との出会い 菅野 まだ「宮崎地鶏炭火焼 車」が1店舗しかない時に、大将も「何とか稼がなあかんな」と話していたんですよ。で、大丸(百貨店)の地下の催事場で、「もも焼き」焼いていたんですね。その同時期、「B」がたまたまFC展開していて、ポッと暇になる時期があるんですね。それで、大丸に飛び込んで催事に出れないかと聞いたら、出れる、と。それで僕らがはじめて出店した際、隣に店を構えていらしたのが「車」なんですよ。当時、大将が35歳ですかね。 野口 菅野さんは?? 菅野 28歳くらい。「B」が倒産する半年とか、1年くらい前ですよ。 野口 逆にいうと「B」が一番いいときですね。FC展開でイケイケのときだ。 菅野 そうですね。その時に「車」のお隣さんになって、ずっと一緒なので結構しゃべるわけですね。で、大将から「にいちゃん、お好み焼きくれ」と。当時、出店者同士は物々交換というか、お金は貰わないのがルールだったんですよね。残ったものを交換したり。で、その時、僕は覚えていないんですけれど、僕は大将からちゃんと「お金を取った」らしいんですよ、それを大将はいまだに覚えていてくれて、「若いのにしっかりしている」と思ったそうです。催事は1週間ほどなんですが、僕の仕事振りを見ていた大将が、ある日昼飯に誘ってくれました。 野口 そこではじめて大将と出会ったと。 菅野 えぇ。昼飯食いながら、いろんな話を聞くわけです。互いのプライベートや、当時大将が興味を持っていたFC展開の話など……。それから、ちょくちょく連絡取り合って、一緒に飲みに行くこともありました。その後、知り合って2年目くらいのときに千日前店を出店すると聞きました。その際に、いろいろと聞かれたんですね。厨房機材のこととか、メニューのこととか、販促とか、求人のこととか。 野口 アドバイスをしたわけですね。 菅野 そうですね。それで、オープンのレセプションに呼んでもらって。ビールを飲んで、「もも焼き」食べて。うまいうまいと。当時、大将と三智ねえさん(イデア代表取締役の淀井三智氏。オーナー淀井氏の奥様)と、おかあちゃん(淀井社長の母)、そして僕、4人でテーブル囲んで。当時レセプションといっても、今みたいではなくて、テーブルには小僧寿しの丸い大皿が並んでいて、料理も「もも焼き」だけ。本当に内々のお披露目会といった感じですね。それをきっかけに、僕は毎週客として飲みに行っていました。当時、鈴木部長が千日前店の店長で、「よく飲む客だな」と、思っていたらしくて。 野口 なるほど。鈴木さんは千日前から入社したんですね? 菅野 いや、蛍池店(1号店)からの社員で、千日前店出店の時のオープニング店長ですね。 野口 店長と客という立場で鈴木さんとも会っていたんですか。で、なんで、そんなに熱心に通っていたんですか? 菅野 まず、お酒が好きだったのと、まあ、単純に「もも焼き」のファンになったんですね。「もも焼き」「軟骨」「皮焼き」、この3つにハマりましたね。これがもう焼酎とビールにぴったりなわけですよ。よく一緒に飲んでいた八百屋の兄ちゃんがいて、いつも彼と一緒に行っていました。二人とも「車」のファンになって、伝票は10枚くらいになるんですね。2人で2万くらい、1回で使っていましたね。 野口 ちょっと話を戻しますけれど、最初に入社した「B」は法人化されていたんですか?? 菅野 最初は個人事業でしたけれど、次女の旦那が入って来た時に「B企画」という法人になりました。結局、前述した喧嘩別れによって「B企画」は本家に。分裂したほうの会社を「C社」という名前でやっていましたね。 野口 じゃあ、C社で働いていた時に、お客さんとして「車」に足繁く通っていた。 菅野 そうですね。その年と、翌年のC社の忘年会は「車」千日前店でやりましたよ(笑)。 野口 なるほど。それで、いよいよ、「車」に入ろうと思ったきっかけは? 菅野 C社をやめますというご挨拶状を皆さんにお送りして、その中に大将も入っていて、投函した次の日に大将から電話がかかってきたんですよ。「菅野君、やめるのか?」って。ちょうど第2子が生まれた時だったんですね。で、「しばらく子育てを手伝いながらゆっくりしようかと思っています。」と。共働きで家内は自営の美容師。まあ、食っていくことはできたんです。で、大将が「お茶でもしようや」と。今でも覚えていますけれど、道頓堀の戎橋の横にある「コーヒーの青山」の一番奥の窓際の席でした。そこで、それまでの経緯をいろいろと話したことを覚えています。そして最後に大将が、「さすがに小遣いも奥さんにもらうのは気が引けるだろう。小遣いくらい自分で稼いだらどうだ」というわけです。タバコ代稼ぐつもりでやるか?と。で、「お願いします」ということになって、「車」蛍池店に入ったんです。アルバイトで。 野口 それがいつですか?? 菅野 95年の年末です。阪神大震災の年です。 野口 当時お子さんが2人いて、29歳ですか? それで、アルバイトと(笑)。 菅野 そうですね。とにかく就職という気分には全くなれないんですよ。まぁバイトしながら、またいい話はあるだろうと、結構のんびりしていましたね。 野口 それで、蛍池店へ。 菅野 そうです。「B」の最初と同じで仕事は皿洗いから。お客として店に出入りさせてもらっていた僕の感覚としては、「もも焼き」を焼くスタッフさんは職人というイメージだったんですね。お好み焼きとは違う。いまさら、しっかり料理を勉強する気もなかったし、ハードル高いなぁという印象でした。けれど、まあ、少しずつ手伝っていったら、意外とできるようになったんです。 野口 ちょっとずつ仕込みも手伝い、これもやり、あれもやりで、結構できてしまった。持ち前の器用さが幸いしましたね。 菅野 そうですね。「車」に入社した時って、家の晩御飯当番も買ってでて、店で習ったレシピを家でつくって嫁にも喜ばれていたんです。料理に興味を持ち出したのがその頃ですね。けれど、スタッフとして働きはじめて、まず思ったのは「B」の時と同じ。みんな年下。呼びづらいわけです(笑)。「B」では、相手が生意気なだけの若者でしたが、今度は自立して技術とプライドを持った年下の先輩たち。さん付けも変だし、君付けもちょっと。役職もあったり、なかったり。それを半年、1年で普通に年相応の会話ができるようにしようと思いました。早く技術を覚えて、店長にならないかんな、と。遮二無二やってましたね。
■オーナーと「想い」をすり合わせる 菅野 バイト期間は本当に1ヶ月なかったんです。11月にバイトで入社して翌月には社員。嫁さんにはごめんといって仕事漬けの毎日。子育てをすっかり任せっきりで(笑)。まぁ、性に合うんですね。マルチで培った24時間365日仕事というのが。 ただ、「車」は昼に出勤すれば終電で帰れる。だいたい12時間くらいだから楽でしたね。当時、5勤1休くらいのローテーションだったのですが、大将が少しでも休みを多く取らせたいと、途中で3勤1休、5勤1休といった変則のローテーションを組んだこともありました。そうすると、休みが多くてやることがなくなるんですね(笑)。それで、休みの日に何をしたかというと、記憶では大将と会っていました。何していたかっていうと、僕の想いと大将の想いをすり合わせていたんですね。僕は「B」で積み重ねてきたレシピとかマニュアルとかFCとか、組織のしくみづくりをひたすら考えていた。そして大将は2店舗しかない事業をさらに拡大していくにはどうしたらいいのかを。熱い思いはある、理念もある、社訓もある。それをかたちにするにはどうしたらいいんだ、と。そんな二人の想いを語り合っていました。 野口 なるほど。 菅野 まず、はじめたのは日報です。山ほどある休みを利用して、ひたすら大将としくみづくりを話していました。そして1年経って、店長に。店を仕切る立場になって、具体的にそのしくみを深く掘り下げていったんですね。エクセルを使って計数管理したり、などがそれです。
■店長昇格後、はじめたのは「営業中のビールはやめよう」 菅野 これ、本来はオフレコ話なんですが、仕事中にビールを飲んで、仕事中に競馬新聞広げて、大将がいない、客もいないとなると、もう店も閉めちゃうのが普通でした(苦笑)。当時、まだ「車」は企業ではなかったんです。残念なことにそれがモラルで、正直僕自身もそれに染まっていました。ひどいときは、閉店のときベロベロでしたからね。それじゃイカンと思ったんです。僕が一緒になってそんなことをやっていたのでは、1年後、みんなから、「菅野さん」と呼ばれることはないな、と。けれど、ひとり息巻いても、みんなはついてこない。長い期間を経てできた文化だから難しい問題です。それで店長になった。店長になったからには、自分の店の風土を変えて、そこからほかの店に発信・伝播させていこう、と。ビールは終わってから飲もうよって(笑)。まあ、徐々にですけどね。急にやると、反発食らうし。いつしか電卓をたたいて、1日の生ビールの杯数を出してみたんですよ。社員5人で5杯、毎日飲んで、1年間365日。それをお金に換算すると、結構な金額になることがわかった。それを自分の給料に換算したらどうなるんだ、と。 野口 自分で何気なく計算したんですか?? 菅野 いやね、周りを説得するには、裏づけがなければだめだと思ったんです。 野口 根拠を明確にされたわけですね。 菅野 「モラルに反するからダメだ!」では、「なんだ、いい子ぶっちゃって」となる。営業中の生ビールをやめたら、会社の収益アップに貢献できて、自分の給料にハネ返ってくんねんぞ、と。そういうところまでちゃんと説明しないと人は理解しないし、行動に移さない。 野口 会社の金で、売り掛けにして。 菅野 そういう状態でしたね。ここだけの話、当時は大将もそうでした。現場に来て飲食しても、一切お金を払わなかった。友達とこようが、家族とこようが、何をしようが払わなかった。結局、僕らがビールを飲んだり、まかないを豪華にしたりするのも、同じレベルでしょう。大将が会社から給料をいくらもらっているかは知らないけれど、もっと、給料は取って構わない。その代わり、お店にきたらお金はちゃんと払ってください、と。そうすれば現場も、モラルや意識は高まるし、よいサイクルになりますからと。 野口 それを菅野さんが提言したんだ。 菅野 はい。それは現場の総意でもあったわけですよ。原価率とか、大将は数字に厳しかったんです。その割りに、友達を連れて来ても全部タダ。それでは原価はあわせられない。「現場もこうする、僕らもこう変わります。だから大将も、こうしてほしい」と。最終的には大将も「わかった」と。もちろん、それをきっかけにしてスタッフ全員の意識も変わりましたね。
■想いを積み上げ、手にした確信。 野口 もう一度聞きますけれど、確固たる入社理由ってあります? 菅野 大将のビジョンがすごく熱かったのは確かです。一緒にこの会社を大きくしたい。会社の理念、社訓を含め、情熱を感じました。それ以前、勤めていたC社の社長との決定的な違いは、大将となら、いままでできなかったことが、いろいろできるんじゃないかなと思えたんです。C社の社長もいい人ではありました。クルーザーは買う、エクスプローラーは買う、毎週社員を引き連れて余暇を過ごす、慰安旅行は社員から1円も取らない。いいかっこしいで、みんなからは慕われるけれども、結局何も残らないタイプだったんですよ。僕はC社の社長を見て思ったのです。これではダメだと。公私のけじめと、会社と個人の切り分けとか、そういうことがちゃんとできないといけない。一方、大将は、その辺をちゃんと明確にされていて、ガラス張りの経営に努めていました。売上にしろ、何にしろ、1円たりともごまかさないし、節税はするけれども脱税はしない。それが当然だ、と。味は確かだし、絶対いけると感じましたね。で、バイトで入ってみて、しくみが出来上がれば、展開もできるはず。 うちの会社は今でもそうなんですが、入社時点では、全員一律給与は20万円なんです。それは、年齢も扶養家族の有無も、前職もキャリアも関係ない。実績によってアップしていくのです。僕も当初は20万でした。1年経っても給与が変わらなければ辞めようって思っていましたね。でも実際に1年経って、ポジション、責任も与えられ、それなりの評価してもらえたんです。「これは大丈夫だ」と確信しました。 野口 なるほど。たくさんの経験を重ねて、自分の価値観、大将の価値観が確認できたんですね。で入社して、蛍池、千日前店、と。 菅野 なんやかんやいっても、やはり最初は「大将が連れてきた人」というレッテルを貼られるんですよ。もちろん、それを覆すのが自分自身だとは考えていました。実際に現場でみんなと一緒に働いて、僕の人となりを理解してもらわないといけない。そうしないと、次の3号店(江坂店)のオープンでは、僕より社歴の長いスタッフもいるわけですから、そこでブーイングが出たら意味がないですからね。そういう意味では、最初の1年間はそれなりに僕としては、自己主張しながらも、まあ、この人なら何とかなるんじゃないのという部分を現場の皆さんに認めてもらうために努力しました。入って間もない人間が店長に抜擢ですから。いくら大将と知り合いとはいえ、ね。 野口 で、晴れて江坂店でオープニングの店長に。単純に現場を回しながらも、マニュアルづくりをはじめとして、会社全体に寄与するような案件にも取り組まれたわけですね。 菅野 日報、朝礼、店長会議……、本当に、基本のしくみづくりですね。すべてがザルで掬っているような仕事ばかりなので、そのときは「あっ」と気がついても、そのままで放置されてしまったり、改善しても継続できなかったりする。点を点のままでなく線にしようと、入社してからは自分がやるべきことをこなしながら、それと平行してやっていましたね。 野口 大将や会社からいわれたからではなく、自分が必要だと思うからかたちにしていこう、と。 菅野 そうですね。逆に大将から指示されて何かをした記憶はあんまりないですね。「B」でやっていたことをとりあえず全部持ってきて、それらを読み返しながらイデアに当てはめてみたといったところです。 野口 何かを考え、試行し、積み重ねる。そして、それを大将が認めてくれる。やがて、それらが会社のスタンダードになっていった……なるほどね。江坂店の次は戎橋店、梅田店でしたよね? 菅野 戎橋店は鈴木部長がオープニング店長で、僕は江坂店の切り盛りでバタバタでした。梅田店のオープンの時にはじめて、「日本LCA(総合経営コンサルティング企業)」や、野口さんとも出会ったんですよね。今まで我流でやっていたものを体系化できました。 野口 「日本LCA」との接点は?? 菅野 取引銀行から「ベンチャーリンク」のセミナーを紹介されて、大将が聴きに行ったんです。当時「牛角」さんがFC展開をするときで、小林社長の話をお聞きして「おもろいやんけ」って。そして、「ベンチャーリンク」から「日本LCA」を紹介されて。 野口 「日本LCA」は、コンサルタントとして入りながら、あーでもないこうでもないといいつつ。そこで、日本LCAから私に電話があって、メニューの話だったんですよね。ぶっちゃけ担当の彼もよくわからんと。それで、うちに投げてくれて、事務所に皆さんがいらっしゃったんですね。 菅野 その当時、うちがベンチマークしていたのが「えん」でして。 野口 ですね。 菅野 「えん」って誰が作ったんだ?って。「日本LCA」に調べてもらったら、「あれは、ミュープランニングだ」と。で、もっと詳しく調べたら、「ミュープランニングというより、今は、同社を辞められた空間計画の野口さんという人らしいです」と。で、最初は「日本LCA」と一緒にお邪魔したんですよね。 野口 そうですね。私も記憶であるのは、打ち合わせはいつも江坂店。当時はまだ、店長兼任でしたよね。 菅野 そうですね。まずは野口さんに来てもらって、全店回ってもらって、そして江坂店の個室で全メニュー並べて食べてもらって。その後、野口さんが、「ホワイトボードありますか?」って仰ったんですよ。そこからワーッと、業態理論の講座がはじまって。うちの蛍池、千日前、江坂、戎橋、と、当時の既存4店舗の業態を上手に整理していただいて、「だから「車」は成長して伸びるんですよ」みたいな話をしてもらって。なるほどなぁーっと。それで、もっともっとブラッシュアップしていこうという話になったんですよね。
■番頭は、現場とトップの翻訳マシン 野口 この辺りから菅野さんは会社を全体的に見る立場になっていったんですね。実際に現場を俯瞰するようになったのは? 菅野 梅田店のオープンのときですね。江坂店を店長に任して、立ち上げで梅田に入ったんですよ。ちゃんと店長がいまして、あくまで彼のサポートとして。 野口 事務所は4階でしたよね。専務取締役になったのは? 菅野 2000年4月ですね。梅田店の前です。その時は店長会議などで、大将がガンガン発言していたんです。でも、僕的にはすんなりと理解できた内容でも、現場の店長からすると首を傾げざるを得ないことが(笑)。もう少し翻訳してあげないと表面上の言葉だけでは理解できないことが山ほどあるわけですね。それを「これはね、こういう意味でね」って話してあげる。いわば翻訳マシンです(笑)。 野口 そういう役割を自覚しはじめたのはいつ頃からですか?? 菅野 やはり、現場を抜けたこの頃からですかねぇ。 野口 店舗も4店舗に増えて、まぁ大阪とはいえ、そんなに近隣にあるわけではないですしね。けど、当時もちょくちょく現場に入ってらっしゃいましたよね。人が足りないとかで。それで、自分が自分の役割の中で全体を見渡すようになっていった、と。 菅野 結局、僕がそれをしないと、組織が動かないし、仕組みが動かないなと。大将も折角いいことをいっているのに、伝わっていないのでは勿体ない。伝われば、もっとイデアの組織も機能も潤滑に回るのになと。もちろん、自分の目標もありますよ。会社を大きくすること、そして僕自身のキャリアをアップさせ、給料も上げていくこと。これらを考えていけば、自分ひとりで何ができるのかと疑問が浮かぶんです。独立というのがまったく頭にないわけではないんですが、組織を大きくしていくことが、自分に帰ってくるメリットも一緒に働くみんなへ還元できるメリットも、数倍にできると思うんです。それに、今、所属している会社さえ大きくできない人間が、独立して本当に人を育て、自分の会社を大きくすることができるのだろうか、とも思います。大将を頂点とした三角形をいかに大きくできるかという点が、仮に将来自分が会社を経営し、成長させることができる器とイコールだと思っているので。
■人に助けられて、ここまできた 菅野 やはり、僕は助けられて生きてきた人間なんです。例えば、A社を首になっても、なんだかんだとマルチの縁で拾われて、マルチがダメになっても、なんだかんだ会長の電話一本で白浜に飛んで、そのまま大阪にいるわけで。大阪にいたからこそ、お好み焼き屋の先輩にも出会い、それがポシャっても、大将に声かけてもらって今がある。人脈、人のつながりは宝だと。これがもっともっと広がれば、僕にとっても、会社にとってもマイナスになることはひとつもない。プラスになるはずです。 野口 先ほども伺いましたが、自分がナンバー2として通訳係にならなければいけない、あるいは会社の最適化し、しくみに変えていくという発想は、どこで学び、感じとってきたのですか?。 菅野 マルチで、ですかね。 野口 ほぉー。 菅野 僕は、マルチ商法と出合わなければ、今の自分はないと思っているんですよ。24時間365日の仕事をして、片道切符で遠くまで営業にいかされて、や○ざの事務所で電話番もして、借金1000万円抱えて全部自分で処理したというかけがえのない経験。自分の役割、自分がこれからしていくことであるとか、やるべきことというのは、マルチ時代の体験があったからこそだと思うのです。 「B」にいた頃もそうでした。こうすればもっとよくなるとか、仕事していても他の誰より一番最初に気づくのが僕だったんですよ。それは、マルチの時代があったからだと思う。例えばホールの接客でも一緒ですね。オーダーを受け、料理を持って行って終わりじゃない。歩きながら全部のテーブルを気にして、次のサービスを考える。これを無意識でできない人は多いですね。いってできるものじゃないと。育っている環境なのかなと。僕もので、生きる術、をね。 野口 中学校からお小遣いさえももらわずに自立してきた。大人になってからはマルチに揉まれ、いろんな体験をしてきた。ズバリ聞きますけれど、その“気づき”って、やはり後天的なものですよね? 菅野 育て上げていくものだと思うんですよ。ただ、生きてきた環境から自然と身に付けていくということもあるでしょう。その環境に如何に自分を置くか?これが必要かな。大将がよくいうんです。「つらいことほど、今となっては楽しい思い出だ」と。マルチの時は本当にどつかれたおしていましたから(笑)。営業にいって、だめでした、なんて帰ってきたら、「ボケカス、もう一回行ってこい」です。そういうことをやってきたからこそ、生きる術を身に付けられたんだと思うんですよ。よく「鬼の特訓合宿」とかツアーがありますよね。あれがなくならないのは、そういうことなんじゃないかと(笑)。
■よき番頭は「つくれるのか?」 野口 今回は会社のヒストリーではなく、菅野功のヒストリーを伺いました。衝撃的で興味深いヒストリーを聞けて、なかなかよかったと思います(笑)。で、ここからは今回の「番頭塾」のテーマである「No.2の育成について」をお聞きしようと思います。果たして優れたNo.2は育成できるのかということですね。例えば、野球の世界でいうと、松坂とか、イチローとか、先天的に持つべくして持った才能が開花した人がいますよね。逆に掛布のように、努力型で積み上げていって、大輪を咲かせたというパターンもあります。で、どうでしょうね。今の菅野専務があるのは、先天的か、後天的かという質問に対し、菅野さんは「後天的な環境が人をそうさせる」と仰っていただいた。では「優秀な番頭になるためのナンバー2論」という部分で、No.2を目指す若い人たちに向けて、何かメッセージを発していただけませんか? 菅野 あの……そんなに難しいことをしてきたつもりはないんです。僕はね、その人になりきることなんだと思うんですよ。 野口 その人というのは社長? 菅野 そうですね。トップ、自分が目指している人、自分が御輿を担いでいる人。よく、経営者視点の成功談で「自分の分身をつくれ」などという話を聴きますが、結局は誰かの優れたNo.2になりたいと思ったら、その誰かになりきることだと思う。なりきるからこそ「この人は今、何をしてもらいたいのか?」「何を考えているのか?」ということがわかるので、種がまける。ましてや、自分はその本人じゃないので、本人以上に種がまけるんですよ。芽の出ない種が100あっても、3つくらいポンって芽が出る確率は結構あるんですよ。僕は今でもそうですけれど、何をするにしても、会社にとって、大将にとって、イデアにとって、何が一番ベストなのかと考えて「種をいっぱいまいている」という意識なんですよ。大将から「実はな、こんなこと考えているんだけど」なんていわれると、半年前にまいた種がふと頭に浮かびます。「そうですか、わかりました、ちょっと調べてきます」といって、半年前の種を省みる。それは、さまざまな経験から得た知恵だったり、情報だったり。プールしておけば、すぐに提案もできるソースです。あとは、もう種をまき続けながら、人脈人材、仲間たちを多くつくって「知らないことは人に聞け」ですよ。聞ける人が、協力してくれる人が、自分の周囲にどれだけいるのか、が資質だと思います。けれど、ビジョンが見えないと種もまけない。先回りできない。せめて1年の短期と、3年の中期と、長期のイメージだけは大将から聞き出すようにしています。
■大事なのは、相手に「なりきる事」 菅野 トップといるときには現場のせいにするんです。現場の子たちがこんなことを期待していますよ、とか、現場は目標が欲しいんじゃないですか、とか。そういえば、あいつは、こんなこといっていたなぁ、と。そうすると大将も「そうかそうか」と、「一回かたちにしてみようか」となる。そこから1週間2週間経ってまた話をしてみると、「考えていたことがあるんだけれどな」となって、2016年100億の構想が出てくる。僕としては「わかりました」と預かって、整理をして、こんなかたちですよねと再提案する。「そうだそうだ、なるほどね」と、細部にわたって確認ができる。そろそろホームページにアップしますんで、また校正してくださいね、と。 却下されることもたくさんありますが、積みあげていく過程で物事が姿を成していくんです。ベースは何かというと、やはり「その人になりきる」。そういうかたちで接しているんですね。だから、たとえば、最近なるべく手を出さないよう努めています。現場の仕事をね。実は今日から、大阪キング(イベント)がはじまるので、昨日から準備をしているんですけれど、ちょっとのぞいて、後は任せたぞと。ほったらかしなんです。行ったらいったでやっちゃうんですよ。そういった姿勢を崩してしまうと、人は育てられない、育っていかない。僕がいたら、全部自分で段取りしてしまいますから。相手の立場になりきって目配り、気配り、行動が移せない人間は、どんだけ「もも焼き」がうまく焼けて、接客が上手でも、組織を動かす人間にはなれないんだよと常々伝えています。 野口 なるほど、「その人になりきる」……か。 菅野 今の僕は、大将になりきる、イデアになりきることが2番手の役割だと思っています。逆にいうと、僕の分身をつくろうと思ったら、今いる部下たちを観察して、そういう行動ができている子がいたら「それは無意識なのか?意識的なのか?」を確認しますね。意識的にやっている子は申し分ない。次のステップアップの仕方を教えます。無意識でやっている子には、「今、君は無意識でやっているんだろうけれども、意識を持ってやりなさい。そしてそれを今度は自分の部下にも積極的に伝えなさい」というでしょうね。無意識でやっていると、人に伝えることを忘れてしまうんです。 野口 そうなるともう後天的なものですね。 菅野 二番手になれというのがいいのかはわかりません。よく大将がいうんですけれど、ソニーも松下も、企業を大きくしたのは二番手だと。いろんな取引先の前とかでいうので、おそらく僕を持ち上げるための方便でしょう。嬉しいんですけどね(笑)。でも、その役割ってとても重要で、二番手の役割を体系化すると考えれば、今の自分の中では「なりきる」ことかと。精神論的な話かもしれませんが。 イデアでは今度新しくホームページを立ち上げますが、野口さんからもヒントをいただいた商品力、接客力、販促力に、企業力、教育力をくっつけて、今のイデアを表現するプロジェクトを考えています。商品力、接客力は今の現場で動くような流れはできている。あとは、教育力。教育は今年初めから取り組んでいて、6月で引き継ぎを行い、下半期は部下に任せてみようと思っています。今、社員もアルバイトも辞めないんですよ。離職率がすごく改善されているんですね。これは、もっとブラッシュアップしていくべきだと考えています。次に企業力ですね。つまりは会社のブランディングで「この会社にいてよかったな」と思ってもらえるような会社にしよう、と。そのために、社内報とか、いろんなしくみをつくり、運営しています。大将にいわれてやっていることは何もない。けれど、トップが目指すことと、やりたいことって何? という発想から考えると、これしかないだろうと。野口さんからいろいろなアドバイスをもらいながら、種をまいているんですが、やっぱり大切なのは企業力だなぁ、と感じています。年初に大将にプレゼンテーションしてGOがかかって、今、それらを進めているといった状況ですね。 野口 だめだ、菅野功……。そこにたどり着くまでを知りたいんですよね。 菅野 それは……きっと楽しいんでしょうね。今、お話したさまざまなことが、結局楽しくて楽しくてしょうがないんでしょう。好きこそ物の上手なれと。 野口 興味があるから意識の扉も開く。楽しいからか。そこで僕が一番聞きたいのは、何で社長にならないんですかということなんです。 菅野 それは、自信がないんですよ。 野口 えーっ?
■社長になる自信がない 菅野 自信がないというのは、大将にはなれないということです。トップのいい部分、悪い部分って、No.2の立場だといろいろみえると思いますけれど、たとえ悪い部分であっても、人をひきつける魅力という意味では、ものすごくよかったりするんですよ。 野口 役割分担ができていると。 菅野 そうなんですよ。そう考えると、僕が持っていないものをものすごく持っているなと。じゃあ、僕が仮に社長になって、大将と同じことができるかというと、多分、僕は全部自分でやっちゃいますし、それは必ず失敗を招くでしょう。僕が社長になれるとしたら、今のイデアの専務であるという状況は維持しつつ、株式会社菅野でもつくるということかなぁ。好きなことをやらせてもらって、もしかして、それで人が集まって、結果として事業になることはあるかもしれない。でも、それが目的ではないんです。僕は社長になることがゴールとは考えていません。事業の結果としてならあるかもしれませんけどね。よく「世界一のセールスマン」とかいわれている人物がいるじゃないですか? ベンツ売らせたら誰にも負けないとか。そういう人が、なぜ経営者になって人を使わないのかといえば、それはきっとできないからなんでしょうね。そういうことなのかなと。そこだけはもしかしたら先天的なものがあるのかもしれません。性格的なものが。 野口 会社を辞めようと思ったことはないですか? 菅野 二度ほどありますね。楽しかったはずの仕事が面白くなくなっちゃった時期があるんですよ。面白くなくて嫌だなと。自分の中では、多分どんな会社にいってもなんとかやっていく自信はあるんですね。それを考えた中で、何でそんな風に思ったのか考えてみると、トップとのコミュニケーションのないときなんです。だから、自分の中で種をまいていたり、良かれと思ってやっていることがことごとく空を切ったり、最初から否定されたりする場面に出くわして、「あれ?おかしい」と感じてしまったんですね。 野口 モチベーションがなくなってしまった。 菅野 ただ考えてみれば、会社が大きくなって、大将も僕も忙しくなると、そんなにしょっちゅう会っている暇なんてないですよね。ゆっくり話し合う場面が少なくなるんだけども、会社の方向性はバシッと決めないといけない。それで、大将としては「菅野は俺のことをわかってくれている」、「10数年も一緒にやってきて、気心も知れてやっているんだから」と。僕は僕で「そのつもりでやっている」と。それでもお互い反対を向いていた時があったんですよ。 野口 ほぉ。 菅野 その結構、喧嘩もしましたし、揉めましたし(笑)。なんていうのかな、コミュニケーションを取りたくなくなっていくというか。そういう時期がありましたね。 野口 二回もありました?? 菅野 最初はだいぶ前の話ですけれど。一番近いのは、2年前くらいですかね。 野口 出店のタイミングでいうと、 菅野 2004年くらい。まだ、丸の内のオープンの前くらいですかね。何考えているんだ、このおっさんと(笑)。 野口 否定的に思ってしまった。 菅野 自分もこの会社を回している一員だし、これだけやっているんだという自負がある。「余計なことをすんな」と、自分の中での逆転現象が起きたことがありましたね。原因はただ、接点がなかっただけなんですよ。その時に第三者がいて、大将自身が相談を持ちかけて、僕もたまたま彼に相談していたんですよ。うちの監査役なんですけれども。 野口 (笑) 菅野 監査役に、各々こうしなさいと諭され、すっと直ったんですよ。なんだったかというと、コミュニケーション不足。あなたはイデアの大将になりきっているつもりだけれど、なりきっていない。大将も専務に任せきっているつもりでも、任せきっていない。そのズレを直せば、問題ないという話。なんのことはない、お互い気をつけましょうと(笑)。
■飲食店の企業化~「成長ではなく膨張」からの脱却 野口 1億の会社が5億を目指す、10億の会社が、30億を目指す。これはいいことです。ただ市場全体を見たときに、市場規模は右肩下がり。ここ10年をみても、法人数も増えてはいないはずです。今後もどんどん減っていくでしょう。これからは、市場の規模が大きくなることはない。中食は伸びるけれども、外食店が出店する場所は繁華街にはない。明らかに供給過多。そんな市場状況で、一昔前みたいに、「独立するなら外食だ!」みたいな常識がナンセンスではないかという仮説を持っているわけです。そうなると、既存の外食法人は、もっと魅力的になって、働きたい会社にならなければいけない。産業としての外食業界において就労していること自体がステイタスにならなければいけない。そんな中で、二番手の果たす役割って、大きいと思うんですよね。その点についてはいかがでしょう? 菅野 二番手自体が独立する例って、実はそんなになくって、その会社の現場を担っている店長などが独立するんですよね、たぶん。店長クラスが独立する際、その人が、とにかく自由にやりたいんだという理由を持っていたり、人の下で働きたくないと感じていたり、夢が「小さな店でこじんまりとやること」だと考えていたりするなら、それはもう止められません。否定できないことです。ただ、「大きな夢を持って、日本一とか、地域一番の外食グループを狙う」という意識があるのであれば、その人を手放してはいけないと僕は思うんです。僕は大手企業のA社、マルチ商法、そしてお好み焼き屋と渡り歩いてきて、組織の大切さを噛み締めてきました。よく最近いうのが「成長ではない膨張」。しくみも組織もつくらずに、規模が大きくなっていくのが“膨張”で、しくみや組織をしっかりと積み上げていって大きくなったものは“成長”なわけで、より大きな結果を求めるとすれば、たった一人ではじめるリスクを僕はとらないほうがいいのではないかなと思っています。過去にもいろんな会社がありましたよね。「社員の独立」を売りにする会社。企業自体の存在意義が、成長ではなく、人材の教育に重きを置いているのであればいいんですけれども、企業としての成長を目指すのであれば、結局、貴重な人材を、足りない部分がまだあるうちに手放しちゃっているような気がする。独立することが悪いわけではないけれども、遠回りのような気がするんですよね。 野口 まぁ、以前から上場企業をはじめとする大手外食は、一生懸命大卒の採用をしてますよね。そもそも企業が上場するひとつの目的は、知名度向上による優秀な人材確保です。少しずつ、外食のステイタスはあがりつつある状況にありますね。そうなると、菅野さんの話を理解できる若い人も増えていくと思います。たとえば、業界が違いますけれど、ITのサイバーエージェントなんて、終身雇用制度を打ち出しているんですよね。若い企業がそういう判断をして、80年代の日本の古きよき経営手法を取り入ています。外食産業の“やりがい”って、会社とともに成長して、高いサラリーをもらい、自分自身の生活力を高めていけることじゃないかと思うんです。そういう選択肢ができてこないと、やはり人は定着しない。前向きに仕事に取り組めない。未来がないと思いますね。 菅野 うちの会社も終身雇用を取り入れたとしましょう。誰もが一生懸命働ける会社にしよう、ってね。でも、それを決めるのは働く側であって、会社ではないような気がします。よそへいっても今ほど給料はもらえそうにないから辞めないでおこう。そんな社員ばかりでは伸びていかない。会社も、業界全体もです。結局、人が会社に定着する一番の理由は、それぞれのやりたいことと、その会社でできることの二つが存在し、上手にリンクしていることでしょうね。入社した時に“やりたいこと”と“できること”があって、半年経った時点で「仕事を覚えました」、「やりたいことはやりましたので、次のフィールドに行きますわ」では、だめです。学びが終わったら、卒業してしまう。じゃあ、どうするか? 会社も、みんなが学ぶのと同じスピードで成長して、みんなが“やりたいこと”を増やさないといけない。会社の個人に対するプレゼンテーションです。人は会社を辞める時、その会社にいる理由がないから辞めていくんです。売上規模、事業規模の拡大だけでなく、その会社で“できること”の拡大をしていかないといけないでしょうね。 野口 まさに組織論としては、そうですね。独立しようとする人に「どうぞ独立してください」といっている会社は成長が止まってしまうかもしれない。 菅野 その成長をさせるのが、やはり二番手なのかなと。実務が得意なトップもいるでしょうが、トップは方向性と夢とビジョン、それらをどんどん膨らませていく。そして現状とのギャップを鑑みながら、今ある「人・モノ・金」を使いながら、どんなスピードでどんなかたちにするのかを見極め、各担当に資源を振り分ける。それが、二番手。 野口 優秀なディレクターというか、コーディネーターという感じがしますね。 菅野 僕も、一時期中小企業診断士の資格取得を目指して勉強をしていたんですよ。もうあきらめましたけれどね(笑)。そのときの内容が“広く浅く”なんですよ。この資格は弁護士でもないし、会計士でもない。ましてや税理士でもない。ただ、それぞれの基本的な知識と基本的なしくみを理解しなければならない。企業にとって、何がベストチョイスなのかを常に選択し、提案をし、いい方向へ導いてあげる。それが中小企業診断士の仕事なんですよね。これは、二番手の仕事とよく似ていると思います。トップと一緒になって悩んでいてはいけないんです。トップが悩んで苦しんでいる時に、「任せてください」といえる人間じゃないと務まらない。トップの悩み、問題を解消していきながら、ともに現場と進んでいく。それができないのが、トップダウン方式ですよね。外部環境、時代背景の変化などで風向きが変わった時に極めて弱い。それは多分、トップからすべて指示命令が下りていなかったのではないか? また、現場の声をフィルターにかけて翻訳してトップに通す人物がいなかったのではないか? その逆も然りで、トップの声をちゃんと翻訳して現場へ伝えるということが大切です。 野口 そういう意味では、私の仕事と似ていますね。 菅野 そうかもしれないですね。 野口 中小企業診断士に興味をもたれたという部分なども含めて、コーディネーターというか、コンサルタントの仕事にとてもよく似ています。逆に、トップの仕事は判断すること。そのための一切合財の判断する材料をNo.2が用意する、コーディネートする。少し話が逸れますが、僕の中でコーディネーター、ディレクター、コンサルタントという仕事と、経営は違うと思っているんです。コーディネーター、ディレクター、コンサルタントは、あくまでアドバイス、そして相手を導くこと。経営、マネジメントは、組織を動かさなければいけない。No,2は、その二つをこなさなければいけない。 菅野 確かに、そのバランスは難しいかもしれないですね。 野口 指示しなければいけないし、動かさなければいけないし。そこにコツってありますか? 菅野 それは、与えられた環境が他社とは少し違うかもしれません。普通、社長は会社にいますよね。そして、ずっと目を光らせている。うちの場合は会社にいない(笑)。いない中でやらなければいけない、二束の草鞋のようなイメージなので。少し毛色が違うかなと思ったりもしているんですが。 野口 半分社長みたいな。まとめに入っていきますけれど、独立したいという人に向けて、組織を大きくするということが独立する以上に楽しいんだぜ、といったメッセージがあればぜひ。 菅野 うちの社員にも何人か独立したいという話はある。独立の目的を聞くと、大体は「自由にやりたい」、「人に何かをいわれずに好きなようにやりたい」と答えます。今は会社のサラリーマンで面白くない、と。そういう子にはこういうんです。逆だ、と(笑)。独立したら、やらなければいけないことがすべてです。やりたい、やりたくないを選ぶことはできない。むしろ、やりたくてもできないことが生まれてくる。自由なんてなくなるんだよ、と。仮に金銭的な問題で考えると、人件費、材料費、内装費など、個人では限界があります。借り入れが可能だとしても、永遠に繁盛しなければいけないというリスクヘッジについて考えなければなりません。イデアでは、メニューにもオペレーションにも、新業態にも、どんどん社員に参加させています。会社の金を使ってチャレンジができるんです。こんな楽しいことはないでしょう? 独立すること自体が目的で、その先を考えていない人が多いんですよね。会社にとどまれば、絶対にリスクは少ない。ですから、今うちでは、イデアにいながらにして社内独立ができるしくみづくりを構想しています。これは、ぜひかたちにしたいんです。 野口 菅野さんのお話を伺うと、思考の基本としてプロセスをしっかり組み立ててやっていくということが挙げられると思います。それは、個人事業主でも、会社員でも、やることは同じ。だったら一緒にやってみたら? 会社でできていないのに外でできるの?? ということですよね。 菅野 そうですね。 野口 実際、番頭は楽しいですか?? 菅野 そうですね。楽しいですね。程よい拘束感と、適度なフリーな感じと。 野口 じゃあ、それを次は、日本全国の中小企業のNo.2の皆さんに。特にこれから伸びようとしている3億、5億程度の企業の、上昇志向のあるNo.2の皆さんへ、メッセージとして語っていただけませんか。「二番手って楽しいよ」と。実際、外食企業に勤める重役クラスの8割くらいは、何の意思もなく、トップに振り回され、日々忙殺されているんじゃないかと思うんです。菅野さんは自らの意思があるから、仕事を楽しめているのではないかと。 菅野 いろいろ前提違いはあると思いますが、結論、経営的な責任が少ない中で大暴れができるでしょ。怒られますがね。これが二番手の一番のメリット。醍醐味です。 野口 大暴れできるということは、できる、ということですもんね。できない人が二番手だろうがトップであろうが、だめ。 菅野 もし今、二番手なのに、やりたいことができていないとしたら、それは名ばかりの二番手で、歯車、組織の一部分を任せられているだけ。本当の意味の二番手ではないのではないのかもしれませんね。
■番頭は、「あげまん」であれ 野口 そういうNo.2って、トップと血縁関係の人が多いんですよ。息子だとか、婿養子だとか、そういう二番手がすごく多い。だから伸びないというか、伸び悩んでいると思うんですね。 菅野 本気で喧嘩をしたことがないのかもしれませんね、トップと。うちは血がつながっているわけではないですし、早々喧嘩もできないですけれども(笑)、あまり喧嘩はしない環境だと思うんですよね。まぁ、大人対大人なので。けれど、肉親であればあるほど恐らく親子喧嘩的な甘えが出ちゃうんだと思います。いいたいことをいいあってしまう。それを親子ではなく、会社の上司と部下として、ちゃんと提言できるかも二番手だと思うんです。優れた女性を指していうところの「あげまん」ですか。社長と二番手は夫婦だと思うんです。社長は夫で二番手は奥さん。奥さんがあげまんであれば、社長は伸びるし会社は伸びる。二番手がさげまんであればその会社はダメ。もちろん旦那は、大酒飲みの旦那もいれば、夜遊び好きの旦那もいる、まじめな旦那もいる。けれど、その旦那を選んだのは奥さん。であれば、全身全霊で、その旦那をいい方向へ持っていけるのか、ただのイエスマンになるのか。そこだと思いますよ。 野口 なるほど。 菅野 これも、誰かにいわれたんですよ。「専務は“あげまん”にならんといかん」と。で、三智ねえさんも、僕にいってくれました。大将と専務も夫婦だよ、会社の奥さんはあなただから、と。もし、どうしても「この旦那は違う」「この旦那と一緒にいたら将来はない」と思うのであれば、いっそ会社を辞めればいい。バツイチにはなりませんから(笑)。旦那を代える根性もないのに、独立だとか、不平不満をいうのは、間違っているのではないかなと。 野口 トップと二番手の関係って、いろんな形があるんでしょうね。トップダウンというか専制君主型もあれば、その逆もある。夫婦の分類と似ているんでしょうね。
株式会社イデア http //www.idea-co.jp/
野口メモ 多種多様な「経験」を余す事無く自分の糧として取り込める菅野氏は正に宇宙人。この番頭塾の企画発案のきっかけであった菅野氏の話を今回聞いて改めて、その真骨頂を再確認した。普通・一般的ではない経験やそこから得た考えを話す菅野氏の語り口は、とても穏やかで、論理的。ちゃんとひとつひとつ考えながら言葉を発している。そして、全体を通して、適度な「熱」がある。熱いのだ。そして、トップへの畏敬の念。これは、トップだから尊敬しているのではない。尊敬しているからこそ仕えている。そんな心の通った関係が見て取れる。トップと番頭のいい関係の秘密、少しでも皆様に伝われば幸いです。
■ゲストプロフィール 菅野 功(かんの いさお) 1966年生まれ 41歳。 福島県福島市出身。 株式会社イデア・専務取締役。 第2回 自らが輝ける“場”をつくる愉しみ
ゲスト/株式会社ビー・ワイ・オー 常務取締役・中野耕治さん
第2回目のゲストとしてお招きしたのは、 「手作り料理とお酒 えん」をはじめとする和食専門店の展開で業界を牽引する、 株式会社ビー・ワイ・オーの常務取締役・中野耕治さん。 料理人の立場で経営に参画。常に現場主義にこだわりつづけてきた努力家に、 No.2としてのご自身の役割と、その矜持を伺った。
聞き手/野口信一(空間計画株式会社) 構 成/坂本仁志(株式会社プログレッソ)
■豊富な海外経験で学んだ「創造力」 野口 中野さんとは、もうかなり古くからのお付き合いになりますね(笑)。 中野 そうですね。「えん」の池袋西口店(所沢店に次ぐ2号店)を出店するにあたって、私がビー・ワイ・オーに入社した頃からでしたね。 野口 では、さっそく中野さんに“No.2”とは何かをお聞きしたいと思いますが、私は“法人”が必ずしも“企業”ではないと思っているんです。とりわけ外食産業の場合は、社内にキチンとしたしくみが確立されていて、その中で社員が生き生きと仕事をできる“企業”になっているケースが極めて少ないと感じています。たとえ上場企業であっても、創業者ひとりが経営を担い、常にトップダウン主義で、社長のすべてに企業の動向がかかっているという状況が多い。また、経営がオープンでないがゆえに、2代目が育たないという後継者問題も取り沙汰されています。そういった意味でも、“企業”が順調に成長を遂げていくためには、中野さんのようなNo.2の存在が大きいと考えているんです。 中野 外食産業のM&Aがなかなかうまくいかないのも、その点にあるでしょうね。いくら仕事ができる人物であっても、途中から入ってきてガチャガチャと指示を出したとしたら下の者は付いてこない。外食企業は文化性が強いと思います。創業時から育まれてきた企業文化が理念や思想を生み、その空気に触れてきたかどうかが経営陣にも求められるでしょうね。 野口 ところで、中野さんはそもそもどういった経緯でこの道へと足を踏み入れたのですか? 中野 私が料理人を目指したきっかけは単純でした。海外へ行ってみたいという憧れがあったんです。そして、海外へ行くための障壁になっていたのはビザの取得でした。ビザを取得しようとすると、やはり日本食レストランに勤めるのが一番の近道。飲食店を経営していた母親の影響からか、料理は嫌いではなかったですからね。本当はアメリカへ行きたくて、アメリカに出店していた日本料理屋さんへの就職を決めていたのですが、諸事情があり「半年ほど待ってくれないか?」との打診がありまして……。結局、知り合いの伝手を辿ってヨーロッパにある別のお店へ行くことになりました。 野口 それまで飲食店での業務経験はあったのですか? 中野 えぇ、アルバイトはたくさん経験していましたよ。ヨーロッパへ渡る前の1年間は、赤坂の料亭で勉強をさせてもらっていました。(ビザ取得の際には)そのお店のご主人に業務経験を証明していただき、申請をして、行くことができたんです。当時、私は19歳。期間は、1985年から2年半ぐらいでした。 野口 渡航先はどこだったんですか? 中野 ドイツのデュッセルドルフです。ご存知の通り、デュッセルドルフにはさまざまな日本企業の支社が進出していて、当時は8,000人から9,000人の日本人が住んでいました。ちなみに、そのお店の親方が、ヨーロッパではじめて寿司を握ったといわれている方でした。ドイツで日本料理の重鎮と呼ばれている料理人が取り仕切るお店でしたから、とにかく忙しい!(笑)。日々の営業はもちろん、仕出しの製造・配達、いわゆる出張料理も行っていました。毎日朝6時から夜10時くらいまで働きっぱなしでしたね。 野口 大繁盛ですね(笑)。 中野 それと、当時は業者さんのような存在がありませんでしたから、日本料理に必要な素材を自分たちで仕入れなければならない。週に1回、新鮮な魚を調達するためにフランスまでトラックを走らせていました。野菜も泥付きのまま届くので葉を一枚一枚洗いましたし、マヨネーズなどの調味料もイチから作りました。私が一番下っ端の小僧でしたから、なんでもやりました。とにかくこき使われましたけど(笑)、思えばあの経験が今のベースになっていたんだなぁと。貴重な勉強させていただきました。 野口 弱音を吐きたいと思ったこともあったのでは? 中野 何度も帰りたいと思いましたよ(笑)。海外で働く人が増え、今でこそ邦人の滞在環境が整ってきたと思いますけど、当時は異国の地での生活を楽しむ余裕なんてありませんでしたから。 野口 ちなみに休日はどう過ごされていたんですか? 中野 休みはほとんどなかったですね。ただ、ヨーロッパはバカンスの時期になると、1ヶ月まるごと休業なんていうことが結構あるんですよ。1ヶ月間、独りで過ごすなんて暇でしょうがない(笑)。ですから、夏休みでも営業しているお店を紹介してもらい、そこで働くんです。フランスや東ドイツなど、いろんな場所へ行きました。2年半の間に、旅にもよく出かけて、さまざまな国の食にも触れました。 野口 例えば、どんな国へ行かれたんですか? 中野 食材の買い付けで立ち寄ることの多いフランスをはじめ、イタリア、オランダ、ベルギー、ギリシア、トルコ、北欧……、ほとんどの国へ積極的に出かけて行きましたね。独りの時もあれば、店の仲間と一緒に行くこともありました。フランスのパリでは、朝、カフェオレとクロワッサンで食事を摂る。なんでもないことなんですけど、あの味が今でも忘れられない(笑)。そういう記憶に残る味覚との出会いが、たくさんありました。 野口 逆にドイツにいる期間、日本の情報についてのインプットはあったんですか? 中野 少なかったですね。テレビも忙しくてあまり見なかったですし……。日本では“時”に縛られ “生かされている”という気分でしたが、向こうでは“自分らしく生きる”ことができました。日本食レストランに勤めていたからといって、日本の情報を自分自身あまり必要としていなかった気がします。単一民族の日本では“これが答えだ”と思っていた社会常識が、他民族文化のヨーロッパでは“ひとつの答え”でしかないんです。算数の話でいうと、答えから式を考える勉強の発想と似ているかもしれませんね。2+3が5ではなくて、5という答えから1+4や3+2を導き出す。創造力豊かにものごとを考えるクセが身につきました 野口 食文化においてもきっとそうですよね。ドイツに行ってはじめて和食の常識について考えさせられたこともあったのでないでしょうか? 中野 やっぱり食材や調味料がすべて揃うわけではありませんから、いわゆる和食の定義に則って、必ずしも料理が完璧にできたわけじゃないんです。さきほど申し上げた算数の話と同じで、その場にあるものを活用して完成させなければならないことが多々ありました。時折、板長からテーマが与えられて料理をつくる機会があったのですが、創造力が鍛えられるんです(笑)。隠し味に工夫を凝らしたり、食材の処理の仕方に現地のスタイルを取り入れてみたり。もちろん本来あるべき和の作法をしっかり把握していないとまったくの別物になってしまいますから、そういった意味でも勉強になったといえるでしょうね。板長に「うまい」と言わせたらこっちの勝ちですから(笑)。 野口 なるほど。自由な発想によって広がりが得られた……と。 中野 失敗談もありますよ。しめ鯖をつくろうとした時、貴重なお酢の代わりにアップルビネガーを使ってみたら大失敗でした(笑)。現在と結びつけて考えることはあまりしないんですが、そうしたさまざまな経験が今のメニューを考える際のベースになっている部分もあるでしょうね。
■楊文慶さんとの出会い 野口 さて、2年半の滞在を経て、現在に至るお話を伺いたいのですが、ヨーロッパから帰られたきっかけはなんだったんですか? 中野 実はもうちょっといたかったんです。あと何年かヨーロッパで修行をして、その後アメリカへと渡りたかった。ところが、日本にいる母親の体調が思わしくないとの連絡があって急遽帰国。実家の店を手伝うようになりました。その後、いくつかの店舗を経験して、現在の私どもの社長である楊(株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 楊 文慶氏)と出会ったんです。ちょうど95年。「えん」の2号店の出店を準備していた頃でした。 野口 私もよく覚えています。当時、楊社長からのご依頼で、現代の感性に合った和食店をつくろうというタイミングでした。そして忘れもしないのが中野さんとはじめてお会いした時、中野さんがいきなりメニューを見せてくださったんですよ(笑)。覚えていらっしゃいますか? 中野 えぇ。店を出すなら“こういうメニューにしたい”という自分なりのイメージがあったんです。 野口 80年代から90年代にかけて伸びていったチェーン居酒屋は、ひたすらコストを抑え、和食を含むリーズナブルな料理を提供してきました。その一方で、本格的な和食を求めるお客さんは高級料亭に行くほかなかった。中間がまったくの真空地帯だったんですよね。そういった状況下で、「えん」によって実現したかったのがアッパー居酒屋というポジションでした。結果的にそれを具現化してくださったのが中野さんだったんですよね。 中野 たまたま、やりたいことの方向性がマッチしていたんでしょうね。 野口 楊社長に対するファーストインプレッションはどうでしたか? 中野 食べ物にさほどのこだわりがない。その代わり、お客様に対してよりよい食空間を提供しようという、しっかりとした価値観を持っている方だと感じましたね。2号店の図面を見た時は驚きました。 野口 目に見えるモノに対しての感性が鋭いですよね。かたや味覚に対しては飲食店あがりのオーナーにありがちな強烈な思い込みがなく、自由な視点があったんでしょう。そこで、中野さんのような料理人の視点と言いますか、No.2の翻訳能力が生きたのではないでしょうか。 中野 料理の旨いマズいは人それぞれ感じ方が違いますからね。どうせなら自分が“おいしい”と思える料理を出したいと思いました。その両面がうまくマッチングしたんじゃないかなぁ……。料理人は、いわば職人です。そして職人は、どうしても自分のイメージの中で物事を捉えがちです。でも、「えん」の企画にはなぜか共感できたんです。新しいことをはじめようという熱を感じたからかもしれません。楊社長にその熱を感じ、“できる!”という自信が深められていったような気がします。また、野口さんをはじめ、プロジェクトに携わった皆さんがそれぞれの役割を果たし、チーム全体としての緊張感がありましたよね。売れるものをどうつくるか? お客様がワクワクできるお店へと育てるにはどうするか? という観点を皆さんから学びました。一本一本のネジがしっかりと締まった状態で、4つのタイヤが動き出していくような感じというのかな。それが成功につながったのだと思っています。 ■「えん」の成功 野口 では、実際に営業がスタートして直面したご苦労はありましたか? 中野 開店前、野口さんもご存知の通りレセプションパーティがあったのですが、大箱(「えん」池袋店:94坪・150席)に対する準備が足りなかったことを痛感しました。料理ひとつひとつを丁寧につくらなければならないことは判っていましたが、その料理を一定時間でいくつつくらなければならないかというオペレーションの部分が欠落していたんですよね。その辺りがまったく機能していませんでした。 野口 厨房は戦場のようでしたね(笑)。 中野 スタッフ全員が浮き足立っていました。オーダーに料理の提供が追いつかない(苦笑)。とりあえず現場を落ち着かせようと、すべての仕事をストップさせ、5分間ほどの休憩を挟んだのを思い出します。 野口 しかし、その後が見事でした。中野さんは私にこう公言したんです。「本番までには絶対立て直す」と。 中野 組み立てを見直しつつ流れを整理し、修正に努めました。翌日のオープンにはなんとか間に合いました。 野口 その後も、お忙しい日々が続いたと聞いています。胃潰瘍になられて、大変な思いまでされましたよね。そんな中で、光明が見えてきたきっかけは? 中野 やはり、独りではなにもできないんだということを受け入れてからだと思います。責任を私一人が負うのではなく、ポジションごとにリーダーを置くという考え方に、徐々にシフトしていったんです。また、和食には、求められるある種のストーリーがあるじゃないですか? 調理場に、煮方、揚げ方、焼き方などの役割分担が存在するように、冷たいものからお出しして暖かいものへと流れる配膳の作法があるんですよね。それを一切無視してみたのです。とにかくオーダーされたものをこなすことに努めたのです。多少の順序には目をつぶり、注文から料理が出るまでの“スピード感”と、常にテーブルの上に料理があるという“状況”を重視したんです。 野口 なるほど。そこが高級専門店とは違う気安さ、ヌケ感といった魅力にもつながっていったんですね。 中野 お客様は食を楽しみに来ています。順序を重んじるばかりに、食の愉しみを邪魔してはいけないという意識に途中から変えたんですよね。それと、最初からマニュアルをセットアップせずに、お客様の要望に対して臨機応変に対応したことが良かったのかもしれません。 野口 社長は心配されていたのでは? お店のこともそうですが、中野さんのお身体のことも……。 中野 「心配するのが俺の仕事だよ」、「心配しかできないんだけどな」というのが口癖だったかな(笑)。とにかく我々自身がびっくりするほど忙しかったですから。 野口 中野さんを信頼して、見守っていらしたんですね。さて、池袋西口店が大ヒットとなり、3号店の渋谷店へと展開されました。飲食企業の成長のバロメーターは店舗の出店に尽きると思うのですが、中野さんご自身に成長の実感はありましたか? 中野 まず池袋の成功があって、渋谷、さらには新宿へとつながっていきました。実は渋谷店の出店前に、1号店の所沢店を担当したんですよ。試行錯誤で開発した「えん」の新しいスタイルを所沢でも導入することになったんです。 野口 所沢店は、池袋西口店をオープンする以前からのお店ですよね。中野さんが入社する以前からいらした古参の料理人さんも多かったはずです。そういったスタッフの皆さんにとって中野さんはおそらく、M&Aのあとにやってきた管理職に等しい存在でしょう。どのようなアプローチを採られたのですか? 中野 上に立つという意識よりも、なんとかしなければならないという意識のほうが強かったんです。だから、とにかく自分が率先して動くことに徹しました。一緒に頑張るということが口先だけのことではなく、現場にどんどん飛び込んでいく感じですね。 野口 コミュニケーションをとりながら……ですね。 中野 相手の話を聞くことももちろんですが、いいたいこともどんどん言っていましたよ(笑)。そもそも私は、自分が料理人でありながら、料理人の世界が大嫌いだったんです。仕込みが終わったあとに競馬新聞を読んだり、休みの日に麻雀をやったり、という悪いイメージのほうですね。古参の料理人の中には「あんな若造の下にはつけない」と反発もありましたけど、自分がイヤだと思ったことはすべて止めさせました。喧嘩も日常茶飯事でした(笑)。 野口 旧態然とした料理人の世界に、中野さんが池袋店で培った“ルール”を持ち込んだわけですね。プライベートにまで踏み込んだ意識改革をなぜ行おうと思ったのですか? 中野 簡単に申し上げると、「あなたは居酒屋の店員でいいんですか?」ということなんです。私自身、今までの経験から見て、尊敬できる料理人も決して少なくはないと思うんですけれど、どうしてもアウトローでだらしないイメージが拭えない人のほうが多かった。そういう部分を改善していきたかったんです。のちに所沢店にいたスタッフのひとりに聞いたことがあるんですが、私が彼らにとって思いもよらないメニューを考えてくるものだから、「この人は何かが違う」と感じたそうです。やってみせるということが大切だったと思いますよ。
■企業に必要なのは「基礎体力」 野口 総料理長から統括、そして経営の中心に参画されていった中野さんですが、社長と中野さんご自身の役割分担はどのように考えてこられましたか? また、外食産業にとって店舗を増やしたいから優秀なNo.2が必要なのか? 優秀なNo.2がいるから店舗が増えていくのか? その点についてはどうお考えですか? 中野 嘘か本当かは判りませんが、楊社長は「中野がいたから大きくできた」といってくれています。自分ひとりではできなかった、と。また同時にタイミングもあったでしょうね。広げていかなければならない状況で、双方の役割が合致したということなのかもしれません。 野口 私はまさに中野さんのような、トップと現場をつなぐ“よき翻訳者”いう役割こそがNo.2に求められる資質だと思うのですが、No.2だからこそ味わう辛さやご苦労もあったとお察しします。No.2はいわば中間管理職。逃げ出したくなることも多かったのではないでしょうか? 中野 おかげさまでうちは成績に恵まれてきましたからね。大変な時期に上を目指して登っていくのと、いい時代にスタートして波に乗ってやってきたのとは、少々意味合いが違います。私たちが「えん」を育ててきたというよりも、「えん」に私たちが育てられてきたような気がします。ですから、本当の意味での正念場はこれからだと思っています。 実は今日の朝礼でも社員に対して檄を飛ばしてきたんですよ。“基礎体力”がなければダメだ、と。今、飲食業界ではいろいろな方法論が語られ、昨今取り沙汰されている食品事故などの問題も含めて、知的産業としての在り方を問われています。花や実をつけるのは簡単だけれど、根っこの部分の“基礎体力”がなければ成り立たないと思うのです。 野口 今、飲食業界では、どこも明らかに利益率が下がってきていますよね。これまでと今とを比較して、中野さんはどのような点に気を使いながらお仕事をされていらっしゃいますか? 中野 いままでは、「広げるために何をすべきか?」といったチェーンオペレーションに意を注いできました。しかし、そろそろその考え方を大きく変えていかなければならない時期に差しかかっていると感じます。例えば、このところ注目を浴びているものに“中食”がありますよね。これが非常に難しい商売なんです。飲食は、ある種、楽しいひとときを過ごす“時間”を買ってもらうというところがある。つまり、空間や演出などの要素でごまかしができてしまうんです。その点、中食は物販と同じです。商品そのものの価値が極めて重要になってきます。そこで、中食事業を進めていくにあたっては、「えん」を徹底的に否定することからはじめなければならないと気づいたんです。飲食屋の考え方と要領だけで足し算や引き算をしていては、決してそれ以上のものにはならない。結局はどこかでクロスするはずなのですが、開発過程では物販の考え方も取り入れなければなりません。そうした試みにもチャレンジしていくのが、私のような立場の仕事だと思っています。 野口 なるほど。伸びてきたときは、どうやってその勢いをキープ・発展させながら効率化を図るか……。これまでは、その点に注力されてきたわけですね。では、ビー・ワイ・オーさんをはじめとする外食産業がターニングポイントを迎えている現況において、中野さんの役割とはなんでしょう? 中野 例えばこの先、売り上げが停滞し、数字が落ちてきた店があったとします。会社の利益を考えると、閉店したほうがいいというケースもあるでしょう。しかし、やるべきことをとことんやらずして、安易に店を閉めてしまってはいけないと思うのです。もしかしたらそれはビラを配ることかもしれない。料理やサービスを見直すところかもしれない。競合のライバル店を分析して、自店のポジショニングを再認識することかもしれない。手っ取り早く、キレイな新しい店をオープンさせたほうが売る上げにつながるでしょう。でも、それだけでは「それしかできないの?」という話になってしまいます。 新しい店舗デザインを考えたり、新しい立地を考えたりすることも当然大切ですが、我々だからできるソフトの力を準備しておく。双方を一緒のレール上に走らせておくことが不可欠です。これは飲食だけでなく、すべての業態・サービス産業に通じる本質だと思っているんですよね。 野口 まさに試されている時が到来している。中野さんのお話されたところの“基礎体力”を見誤ることなく、ちゃんと向き合って、考えていかなければならないということですね。 中野 仰る通りです。今、百貨店が衰退している理由は、わざわざ遠くまで出かけなくても近所の複合商業施設でこと足りてしまうからです。でも飲食店は、その場でしか味わえない感動をお客様に提供できます。感動を共有できる場だと考えています。そんな魅力のあるお店を作っていきたいですね。
■中野さんが考えるNo.2とは? 野口 さて、最後にこの対談のテーマである「No.2」についてお聞きしたいのですが、その役割とはなんだとお考えですか? 中野 うーん、なんでしょうね(笑)。日本の社会って、まだまだ役割分担についてあいまいな部分がありますよね。欧米ではそれぞれの役割に対する評価のしくみがしっかりとできあがっています。例えば、シェフの社会的地位は極めて高い。自分が輝ける居場所、ポジションというのかな。料理をつくる料理人にとっても、サービスを行うサービスマンにとっても、社員ひとりひとりが評価され、育てられていく場所が、もっともっと広がっていかなければならないと考えています。私は料理人からスタートし、おかげさまで経営的な面においてもいろいろなことに携ることができるようになりました。現在のポジションに立ってできる役割とは、企業の成長にとって多種多様な可能性が交わる軸をいくつも創出していける点かもしれません。 野口 これから社会人になる若者に「No.2になりたいんです! どうしたらなれるんですか?」、と聞かれたら、中野さんならどう答えますか? 中野 その場所に留まることでしょうね。言い換えれば、その場所にめぐり合うこと。めぐり合ったときのことを考え、意識を高め、準備をしておかなければならない。チャンスにめぐり合ってからNo.2を務めあげようとしても、充分な役割は果たせないですからね。 野口 では逆に経営者から「No.2を育てるにはどうしたらいい?」と問われたら、どう答えますか? 中野 経営者の皆さんにアドバイスをするなどおこがましい話ですが、強いて言えば、自分にない部分に関して敬意を払ってあげられる度量が必要かもしれません。「自分にはできない」と言える経営者の謙虚さが、部下を奮起させ、人を育てるんじゃないかなと思います。 野口 人間はオールマイティじゃないですものね。 中野 えぇ。私の場合も、楊社長に対して “経営者として” 尊敬すべき部分があると感じています。そして、幸いなことに社長も私を信用して任せてくれる。言葉として発しなくても構わないんです。お互いに持っていない部分を認め、埋め合っていかなければ、企業は成り立たないと思いますね。 野口 中野さんのお話をお聞きしていると、“輝ける場”をご自身自らでつくりあげてこられたのだなと感じますが。 中野 知らず知らずして、そういう場をつくってきたんでしょうね。 野口 そして楊社長がそれを許容し、中野さんを心から信頼している。素晴らしい関係性だと思いますよ。 中野 社長と私の関係だけではなく、スタッフと私の関係もそうなんです。私がスタッフによく言っていることなんですけど、「俺がデスクにふんぞりかえって指示を出しているだけの上司になったら、いつでも追い出していいからな」と(笑)。店長や料理長には「常にカッコよくあれ」と言っています。自分たちが近づきたいと思える上司がいないと部下はビジョンを持てません。理想的なフィールドに尊敬と信頼の絆が生まれ、綿々と続いていくのだと思います。 野口 楊社長と中野さんとの間にある絆は、お互いを認め合う謙虚さが根っこにあるんだなぁと痛感しました。しかし世の中を見渡すと、そうした奇跡的なベストマッチは極めて稀で、多くの企業では優秀な人材が育たず、流出してしまうことも少なくありません。私は、組織を強くするための優れたNo.2、No.3の存在が必要不可欠だと考えるのですが、その点についてはどのように思われますか? 中野 飲食業は欲との戦いだったりしますよね。 野口 特に若い人たちがこの道へ入るきっかけとして、独立したい、お金持ちになりたい、有名になりたい、という願望が必ずどこかにあると思うんですよ。 中野 確かに文化としてそういう部分はあるでしょう。店のデザインなんかもそうですね。池袋店では必要なものしかなかった。その成功をベースに新設した渋谷店では「こういう空間も欲しいよね」と、ムダが増えていったかもしれない。そういった欲をどう抑えるか、ブレーキをかけられるかが必要になってきます。お客様の要望がサービスの質を高め、サービス業の地位を向上させているのと同じように、社会全体が個の役割をもっと認めるような方向へどんどん加速している。これからは、私たちも含め、飲食屋としての意識・感覚だけでは立ち行かなくなるんじゃないかな。例えば、百貨店は百貨店であるために何が必要か? メーカーはメーカーであるために何が必要か? を問いただし、よりよい道筋を模索しますよね。そうしないと進歩はありません。それと同じように、経営者が経営者であるためには何が必要か? No.2、No.3がそのポジションを務めるためには何が必要か? を常に考えていかなければならない。これを紐解いていくと、結局、企業とは個の集合であることに気づかされます。個が組織の中で生きる道を考える企業教育というのかな。会社は個の活躍の場を創出し、個は会社やお客様から要求されていることを察知できる能力を磨いていく。そうした環境をどのように整えていくかをあらためて見直す必要があるでしょうね。また、そういう社会になっていくべきだと思います。 野口 大局観というか、業種を飛び越えた視点も必要ということでしょうか。例えば、飲食店が百貨店への出店を考えた時、まず見るのは飲食フロア。そして、百貨店そのもの。どんなブティックが入っていて、どんな客層がそこを訪れるのか。さらに引いた目線で考えると、その百貨店が街においてどんなポジションを果たしているのか。物事を広く見渡し、さまざまなコトに興味を持つことが求められているということでしょうね。 中野 そうですね。今、巷では宮崎県の東国原知事が人気を集めています。彼は一生懸命仕事に取り組んでいる。でもそういった実務的な取り組みや姿勢、スキルに加えて、人に伝える能力や訴える能力といったプラスアルファの魅力があるから評価されていると思うんです。これからの時代は、個に多様な能力が要求されていくでしょう。No.2、No.3もそうですね。ポジションに甘んじることなく、常に危機感を持ちながら意識的に自分を高めていく努力をすべき。我々のような外食産業の場合ですと、店舗を取り仕切っている店長や料理長って、意外に店が置かれている環境や街の変化に気づいていないことが多いんですよ。私もスタッフによく言っていますが「作業に没頭するな」と。街の変化・お客様の変化を察知することが重要です。 野口 多くの外食企業においてトップとNo.2の関係性を見ていますと、せいぜい1+1=2。よくて二乗の関係なんですよね。楊社長と中野さんの場合を考えると、二乗を通り越して“化学反応”を起こしている奇跡的なマッチングだと思えてなりません(笑)。その点についての自負はあったりしますか? 中野 それは、いい出会いがあったからなんですよ(笑)。いい出会い=チャンスをしっかりものにできたかどうかだと思うんですよね。 野口 ビー・ワイ・オーさんのように法人から企業へ脱皮すると、いずれ楊社長も中野さんも後進にバトンを渡す時が訪れるかもしれません。そのために今、中野さんはどんな試みをされていらっしゃいますか? No.2は何をすべきなんでしょうね? 中野 私はあんまり2番手というポジションを意識していないんですよ。ただ、社員の生活が満足いくレベルで維持できるように給与を上げていかなければならないと考えていますし、将来的に組織をさらに発展させていかなければならないという責任を感じています。そのためには事業を創出して、可能性を感じさせる環境を生み出していくことが先決でしょうね。昨今、子どもたちの犯罪が増加の一途をたどっていますが、それは親の責任です。親がしっかりしていないと子は育ちませんよね。また、このところ中国関連の食品事故が話題になっていますが、中国産の食品の輸入をストップすれば問題が解決するのかといえば、そうじゃないと思うのです。活字から得た情報だけで中国産から国内産に切り替えたバイヤーさんには、「じゃあ、あなたは国内農家の現場を実際に見たことがあるんですか?」と問いたい。当社では食材を仕入れる際、必ず契約農家の皆さんにお会いしたり、現場を視察したり、食材に関する社員の意識を高める目的から研修も実施しています。そういった啓蒙活動を行いながら、経営者とともに“企業が利益を生むためには何をすべきか”を考える。それがNo.2の役割ではないかと思っています。
株式会社ビー・ワイ・オー
野口メモ 今回のゲストである中野さんとは、「えん」の2号店の立ち上げから一緒に店づくりを行ってきて、公私共々仲良くさせていただいている。当時から料理人としての矜持を遺憾なく発揮し、基本・基礎を踏まえた上に、感性を付加するという事を料理で当たり前に応用し、形にしてこられた。「えん」の料理は一言いうと「創作」という言葉を用いることができる。だがそれは、「和風」ではなく、「和食」としてである。その中味たるや、一見すると誰もが真似できそうに思えるが、これを居酒屋という業態、そして大箱で、成立させることは決して容易なことではない。「えん」の盛業の真骨頂は正にこの部分であると断言したい。 近年の成長著しい外食企業のNo.2で料理人出身の方は殆どお見かけしない。中野常務は料理人としての基本・基礎+感性の数式を見事に経営面でも如何なく発揮されているからこそ、株式会社ビー・ワイ・オーはこれほどにまで進化・成長を遂げてきたのであろう。中野さんは優れた数式の持ち主であると改めて痛感した。 第3回 目指すのは、“本物”のプロフェッショナル
ゲスト/株式会社ワンダーテーブル 取締役・秋元巳智雄さん
「モーモーパラダイス」や「東京ベリーニカフェ」をはじめとするさまざまな業態を展開し、 最近では、N.Y.ザガットで“最も行ってみたいレストラン”に挙げられている ユニオンスクエアカフェを「ユニオンスクエアトウキョウ」として日本に上陸させ、 業界に話題を提供しているワンダーテーブル。 そのトレンドを操る取締役・秋元巳智雄さんをゲストに招き、No.2としての役割、 常に“本物”にこだわり、“本物”を目指すために創りあげてきた “しくみ”についてうかがった。
聞き手/野口信一(空間計画株式会社) 構 成/坂本仁志(株式会社プログレッソ)
■“本物の店” “本物の社員” “本物の会社”であれ 野口 外食産業は売上や店舗数の大きいことが“企業”と受け取られがちですが、 このところの人材不足問題や事業承継問題などを見ていると、規模の大きいことが決して “企業”ではなく、社内にさまざまな“仕組み”が存在するか否かが、本当の“企業”と 呼べるかどうかでは、と気づかされます。そして、組織が機能するためにはNo.2が大切であるとも感じます。例えば、ゲンコツ社長がゲンコツだけでやってきたようなところは、社長が息切れしてくると会社もお店も息切れしてしまう。今、勝っている企業には、必ず優秀なNo.2がいるんですよね。 そこで、ぜひ秋元さんにもお聞きしたかった。秋元さんは、私がこの業界に入ってからの先輩であり師匠です。私の持論を含めて、秋元さんの「No.2論」をお聞かせ願えればと思っています。 秋元 とてもいい視点だと思います。たまたまうちでは今、新しい中期計画を実施していて、 その中に数値目標を達成するためのゴールイメージを掲げています。それは、プロフェッショナルが育つ会社、永く働きたいと思う会社です。常に“本物の店”であれということで、“本物の店”は “本物の社員”がいなければならないし、“本物の会社”にならなければいけない。 そこがポイントだと思っています。 さきほど野口さんが仰っていたように、飲食業界には本当にプロの経営者が少ないと思っていす。社長のセンスで爆発的に成長した企業はあるんだけれども、その社長が倒れてしまったら一気に終息してしまう。結局、社長のセンスに頼ってしまうと、トレンドでいうと5年のサイクルで終わってしまうんですよね。力のある社長なら10~20年は持つかもしれませんが。 野口 ちなみに、その中期計画はいつからスタートしたものですか? 秋元 現在の中期計画は昨年度からです。原則3年の中期計画ですが、今回の第四次中期計画は4カ年としています。また、“本物の会社”になるための企業哲学(フィロソフィ)をしたためた、こうしたカードも作っているんですよ。 野口 (カードを手に取り)これは社員がたずさえているものなんですか? 秋元 カードは、アルバイト・フルタイム全員が勤務中は持っています。小冊子は、 新卒社員の採用を対象としたものですね。フィロソフィはただ作っただけでは意味が無い。 現場と本社の社員に常に持たせたり、ディスカッションする場を設けたりしています。 社員全員がちゃんとゴールを見据えて経営に参画していくことが大事で、社長ひとりのオーナーシップだけで物事を進めていくとなかなかそうはならない。“本物の会社”にするために“しくみ”を つくり、それぞれが一生懸命努力することが大切なんですよね。 ところで、ちょっとうちの会社の自慢をしていいですか?(笑) 野口 なんです?(笑) 秋元 日本エル・シー・エーさんが主催する「外食クオリティサービス大賞」という審査会があるんですよ。これまでも優秀なサービスマンを称えるものはあったんですが、これは企業を称賛するものです。まず、参加した約160社2600店舗を対象に調査し、各企業のCS(顧客満足)を審査します。そして上位11社に絞ったうえで、今度はES(従業員満足)をリサーチするわけです。 お客様の満足度に加えて、スタッフの感動・満足があってはじめて利益につながるんだという発想です。強みを生かした経営と理念、そして会社にしくみがあるかどうか。そこでワンダーテーブルが大賞を戴いたんです。これ、すごくわかりやすいですよね? “本物の店”、“本物の社員”、 “本物の会社”を追求したひとつの結果を、こうした客観的なかたちで出せたんです。 (もちろん、まだまだ課題はたくさんありますが)先ほども申し上げたように、組織にいかにして “しくみ”をつくるかが、僕らのような経営に携わる者に必要なんじゃないかと考えています。 ■選んだのは、小さな成功ではなく“自分磨き” 野口 ところで、秋元さんと、秋元さんが現在所属されていらっしゃるワンダーテーブルとのなれそめといいますか、どういった思い・考えで人生を歩まれてきたのか……。その辺を時系列も含めながらお聞かせいただけますか? 秋元 実家が野菜を作る農家に、僕は二男として生まれました。子どもの頃は親戚のみんなに 「お前は愛想がいいから、商売が向いているよ」といわれながら育ってきました(笑)。 その後、学生の時ですね、飲食業界でアルバイトしました。「あぁ、これが俺の天職なんだな」と 感じたんですよね。今でいうスローフードで育ち、愛想があって商売が向いているといわれながら 大人になった。もう外食産業しかないじゃないですか(笑)。 当時は独立して社長になりたいという気持ちはありましたね。仲間と有限会社を作って事業をはじめたこともありました。25歳くらいの時だったかな。ただその時、思ったんですよね。 自分の今の能力で毎日現場に入って、少しの利益を出して、ちょっと贅沢はできるかもしれなが、果たして本当にそれでいいのか。今のままで本当に会社を大きくしていくことができるのか。365日現場に入って汗をかき、通帳とにらめっこし、支払いを気にしながら生きていくことが、今の自分にとって本当にいいことなのか。もう一度、自分を磨くべきだと感じたんです。 で、ちょうど11年前にこの会社に入ったんです。27歳だったでしょうか。 野口 11年前ですか。入ろうと決断した大きなきっかけはなんだったんですか? 秋元 ゼロからスタートするには、どこに身を置いたら「勉強になるのかな?」と思ったんですね。 まぁどういう部分が勉強になるかというと、どんな人たちと一緒に働くかというところでしょう。 次に資本です。自分が活躍できる場をつくるための資本ですね。 野口 往時を振り返ってどんな人たちが秋元さんを惹きつけたんですか? 秋元 僕よりちょっと前にスカウトされた皆さんや長岡謙太郎さんという素晴らしいシェフがいらっしゃいました。とりわけ長岡さんは食材にこだわる方で、“本物の店”を作ろうという部分でとても気が合ったんですね。勉強するためには彼らと一緒に仕事をしたいと感じました。 野口 具体的にはどんな仕事からスタートされたんですか? 秋元 ご存知のように、僕は野口さんの以前の職場でもあったミュープランニング&オペレーターズで、「東京ベリーニ・カフェ」のプランニング開発を“外注先のプロデューサーとして”やっていたんです。それが当時大ヒットしたんですよ。「これは、もっと広げられる!」と実感しました。入社してやるべきことは見えていました。いわゆるイタリアンブランドの多角化ですね。 野口 なるほど。 秋元 まずは、それをしっかり管轄しながら、当時、社に企画の部門がなかったものですから企画の部門も新たに作りました。現場をサポートするのと、企画でモチベーションを上げていく双方を手掛けました。役職も、よくわからないアシスタントマネージャーという肩書きだったんですが(笑)。 野口 秋元さんの場合は、すでに存在する企業に入社されたわけですけれども、あとから入ったことによるご苦労などもあったんでしょうね。 秋元 当時は、新卒よりも中途採用が主流。ヘッドハンティングのような形態も多かったですし、 僕のような入り方をした人たちは、みんな同じ苦労をしていますよね。既存のプロパーとのせめぎ合いというか、既存のプロパーに認めてもらわないと評価につながらない。そのギャップを乗り越えた人が残ってきたということでしょうね。 野口 そうでしょうね。 秋元 うちでは店舗の店長を支配人と呼んでいるのですが、なにしろ当時は僕より若い支配人がひとりしかいませんでしたから。新卒はたまに入っても、20~60代までがいた会社です。その中に飛び込んで、赤字を黒字に変えるんだという信念のもと、やってきました。 野口 具体的にはどんな苦難が待ち受けていたんでしょう? 秋元 僕は苦難を苦難とも思ってなかったんですよね。気難しい職人気質の料理人さんとも気が合うし、年齢は別としても、どんな人にも比較的順応できるんですよ。ただこれだけはいえますが、だいたい1対10で話すとダメですね。総スカンを食らいます(笑)。私の場合は、徹底的に1対1で 話しました。この店をよくしたいんだという自分の思いを伝えたんです。 野口 秋元流の極意ですね。 秋元 はじめの1年くらいは、きっと「アイツは何者なんだ?」という部分があったと思うんです。 だけど「自分も成長したい」と願う社員は、半年くらいの間にほとんどついてきてくれるようになりました。 野口 フードビジネスは、いわゆる「経験者採用」、「中途採用」が当たり前という状況です。ある程度の経験を積んで、新天地へ行き、そこでもがき苦しんでいる人の話をよく聞きます。先ほど秋元さんが仰っていた「1対1で理解し合う」というお話も素晴らしいと感じますが、もう少し突き詰めた部分でのアドバイスはございませんか? 秋元 難しい質問ですね(笑)。やはり、相手側に立てるかどうか、相手の将来を共有できるかどうかがとても大切だと思いますね。うちでは社員全員に面談シートを渡して、先に入力してもらった上で面談に臨んでいます。この会社に何を求めているか、将来何をしたいのかを、1対1で話すことで信頼関係が構築できます。安心感を持って組織の一員になれる。 また、自分自身はあとから入ってきたのだからこそ、人と同じことをしていてはだめ。人の3倍働くつもりじゃないと無理ですよね。それは時間ではなく、時間も質も人の3倍のパフォーマンスを発揮するんだという強い気概です。 野口 ではワンダーテーブルさんに入られて、その後のお話を……。ご自身としては順当に挫折を味わうこともなくやってこれたとお考えですか? 秋元 いえいえ、厳しい道ですよ(笑)。90年代後半に作ったブランドが伸びていきました。ところが2000年に時代が変わったんですよ。どんどん業績が悪くなる。そして所帯がそれなりにあって業績が悪くなると、会社全体の収益にも関わってくる。僕らにはたくさんのステークホルダーがいて、 大株主も一般株主も数字を見て評価する。苦しかったですね。 その一番苦しい時にやっていたのがブランド力をあげることだったんです。サービスレベルをアップさせるとか、魅力的な商品を企画しようとか、ですね。ただ、サービスや商品だけに頼っていてはいけない。組織として「現場力」に力を入れようという結論に至りました。2003年からしっかりそれをやり、2004年は赤字になってしまいましたが、2005年からは徐々にその効果がかたちになってきた。一昨年に100億、昨年は113億、ようやく上場企業としてステークホルダーに最低限の奉仕ができるようになってきました。入社して今年で11年になりますが、厳しい11年間でしたよ。 野口 2000年に消費者の価値観が大きく変わった。そして血を流し、V字回復を達成した。苦難を苦難とも思わない秋元さんでも、辛く苦しいエピソードがあったんでは? 秋元 当時、長岡さんがキッチン全般、全店舗のメニューの決定、食材の調達などを担当し、僕がサービスやマネジメントを担当させてもらっていたんですよ。業態開発など僕ら2人が中心にやって、今の社長である林(代表取締役社長・林祥隆氏)を加えたトライアングルで、苦しい時期を頑張っていたんです。ところが会社の成長スピードを僕ら個人の成長スピードが上回ってしまうと、 どうしてもモチベーションが下がってしまいます。辞める、辞めないという話にもなる。 結局、長岡さんが辞めてしまい、その後は本当にしんどかったです。長岡さんの代わりはいませんでしたから。難しい仕事は力のない人がやるとチーム全体のモチベーションが下がってしまいす。僕も企画の部署を兼任していて、穴を埋めるのに苦労しました。やがて自分自身の仕事も手薄になってきて、スタッフひとりひとりのケアというか、モチベートしてあげることができず、優秀な人材が離れてしまった。持ち直すのに2~3年かかりましたね。 野口 回復を果たす前になくて、秋元さんたちが後からテコ入れしたモノなのかコトなのか、何かがあったと思います。例えばどんなことが挙げられますか? 秋元 やはり方針を変えたことが大きかったでしょうね。先ほども申し上げたように、まずブランド力から現場力にシフトし、それを現場のスタッフに徹底しました。そして戦略自体を変えました。強い業態をより強く、出店攻勢をかけました。あわせてフランチャイズのパッケージを開発していくことも並行しました。 ちなみに現場力を強めようといった大きな方針の発想は、だいたい僕と林が海外に行って、その旅の中でじっくり話し合い、時には喧嘩をしながら決めていくことが多いですね。 ■トップとNo.2のよりよい関係性 野口 そもそも、林さんと秋元さんって、それぞれがどういう役割でどういう関係なのですか? 秋元 ほかの企業さんと違って、トップとNo.2というスタンスではあまりないんですね。林は創業者ではありませんし、ワンマン経営で会社を大きくしてきた人ではありません。僕より前にこの会社にいて、この会社をどうしていくか、いつも2人で徹底的に話し合って物事を決めてきたという関係ですね。 権限という意味では経営者としての権限はあるんですが、現場に対しての権限は僕に委ねられています。もちろん、僕もどんどん権限を下に委譲して、組織として主体的に自立的に働ける環境を作っていかなければと考えています。おそらくほかの会社では考えられないほど、とにかくトップの林とよく話します。(笑)。 野口 どちらかというと直列ではなく並列で対峙し、それぞれの案をぶつけて、結論を導き出すということですね。 秋元 あくまでも現場の権限は僕です。スタッフの意見を引きあげて、社長と一緒に話し合いながら、細かい部分をジャッジしていく感じでしょうかね。 野口 なるほど。それは、ワンダーテーブルさんの特徴でもありますよね。かつて私の存知あげていた頃の林さんは常務でした。秋元さんとご一緒に伸長され、創業社長でもなく、叩き上げ社長でもなく、ゲンコツ社長でもないかたちで社長になられた。明確な役割分担ができあがっていたんでしょうね 秋元 そうですね。役割分担が明確です。そして、社長とNo.2というそれぞれの立ち位置から、 本物の会社にするにはどうしたらいいかを本気で考え、本音で議論している。それができているんでしょうね。意外とできていない会社が多いと思うんです。うちは極力2人でとことん話すようにしています。 例えば、経営の場面では往々にしてトップは先のことを話す傾向がありますよね。もちろんトップとして重要なことだからです。しかし、1年後の話をしていたつもりが、考えてみたらそれは今のうちのレベルだと3年後じゃないと無理だよ、といったことがあります。そうした場合、お互い話し合って、僕がどちらかというと柔軟剤の役割になって現場に落としていく。現場に落とした時には、2人の言っていることが矛盾することなく、常に同じである。そういうところに気を使ってきましたね。 野口 「秋元さんはどうやってNo.2になったんですか?」。そう人に聞かれたら何と答えますか? 秋元 よく冗談でいうのは「ジャンケンが強い」から、と(笑)。 野口 どなたとジャンケンしてきたんですか?(笑) 秋元 97年に入社をして、アシスタントマネージャーからマネージャーになり、副部長を経て部長になりました。ちょうど30歳くらいでした。そのときに、先ほども申し上げましたが、一緒に会社を作ってきたたくさんの先輩たちが辞めてしまったんですよね。本当は数年で独立しようという考えもあったのですが、この会社を本物の会社にすること、飲食のプロの経営者を極めることをやらなければいけないと感じたんです。小さな会社の経営というちっぽけな夢を追うのではなく、この会社にしっかりと根を下ろしてやっていこうと考えたからだと思うんです。 野口 自分の中で仕事に対する自己目標。これを一個ずつ設定してクリアしてきた結果、今のポジションがある。あるいは、与えられた課題をがむしゃらにやってきた成果が周りからの評価につながったのか。どちらなんでしょう? 秋元 まぁ、後者ではないですね。先に挙げた「人の3倍働く」ということは、決してがむしゃらにやるということではないです。目標をしっかり見据えて、結果ももちろん出さなければならない。 途中から、僕が営業部長をやらないと会社がよくならない、自分のためにもならないと感じてやってきました。近い将来、僕が社長をやらないと会社がよくならないと思えば、社長をやることになるかもしれません(笑)。思い込みというか、いい意味での「信念」を持って働かないと、自分のレベルを上げたいと願う志の高い社員は育たない。なぜ、うちの幹部社員がここまで成長してこれたかというと、自分自身がそういう気持ちで接してきたからだと思うんです。 ■自立心を育て、会社に貢献するという生き方 野口 私は、定量的な数字規模が企業ではなくて、「しくみ」が存在することが企業だと思っています。売上の絶対値が何十億、何百億あっても、運営のしくみや人材育成のしくみがなければいけない。「外食=独立」という神話は、今はだいぶ薄れてきていますが、秋元さんのようなNo.2を目指し、「しくみ」をつくり、企業の成長に貢献する魅力を喚起・啓蒙していきたい。それがこの「番頭塾」の主旨のひとつなんです。今、No.2を目指して頑張っている人たちへぜひメッセージをお願いしたいのですが。 秋元 なるほど。うちの社員で、実際に独立できるかどうかは抜きにして「独立したい」という人間はかなりの数います。そういった社員に僕がよく話しているのは、それはそれでいいけれど、この会社をもっと魅力的に変えていく、社員が永く働きたい会社に育てていく、そして君たちをプロにすることが「うちの会社のゴールなんだよ」ということです。結局は自分が自立しているかどうか、なんですよね。確かに社長は独立しているけれども、自立して仕事ができる社員は、すでにプロフェッショナルなんです。会社の中で自立していれば、仕事に魅力を感じながら働けるはずです。与えられた仕事を期限通りこなすだけでなく、自ら企画して、実行できるプロになること。No.2になれるかどうかは、その結果であって重要ではないんです。 野口 自分が自分でしかないという自立。秋元さんにとっては、その結果がNo.2ということであるということなんでしょうね。 秋元 いろんな仕事にチャレンジできる環境をつくっていますからね。うちの場合は社歴が長いから給料が上がるんではなくて、役割に対して給料が支払われるシステムを採っています。例えば、「ローリーズ・ザ・プライムリブ」は1店舗で年に10億を売り上げるんです。そんな店舗の支配人と年商8千万の店舗の支配人とじゃ、差があって当然です。本社の仕事もそうですし、役割があって、与えられた役割によってサラリーが変わるという人事制度があります。能力を発揮できなければ外されてしまいます。自立心を育てるしくみがあるんです。 よくあるのが、社長が気に入った人材を見つけてきてお前は営業部長だ、とか。本当に力があるのかわからない人が要職に抜擢されたりする企業がありますよね。そのグレーゾーンを取り払って、わかりやすいレールを敷いてあげてはじめて、実力のある人が伸びてくる。実力をどうつけるかはそれぞれが個々に考えればいいですからね。「秋元さんができるんだから、俺にも営業部長はできますよ」と公言する部下もいますから(笑)。みんなが頑張ればNo.2にも社長にもなれるという環境なんです。 野口 No.2とは率直に言うとどういうことなんでしょう? 秋元 トップにどれだけ感情移入できるか。そしてトップとどれだけスムーズにすり合わせ裁量につなげるか。そのパフォーマンスの高い人間がNo.2なんじゃないかなと思います。 また、トップは往々にして遠いところから物事を見ているケースが多いので、その穴を埋めたり、わかりやすく言語を差し替えてみたり、端折ったりということが多いですね。だけど、違うことを言ってはいけない。社長がこうしたい!と考える夢を実現するために、成功するために、ディテールを積み上げていく作業が求められますね。 野口 ひとつの役割としては、すぐれたトランスレーターであれ、と。 秋元 仰る通りです。 野口 なるほど。ではもうひとつ質問を……。月並みな言い方ですが「No.2はイエスマンであるなかれ」、「社長に対してモノ申す存在であれ」というセオリーめいたものがありますよね。そういう視点について、秋元さんはどうお考えですか? 秋元 そうですね。特にうちの場合、僕と林の関係はまさにそれですからね。モノを申すのが当たり前という(笑)。 野口 ワンダーテーブルさんは、トップとNo.2の関係が極めて良好ですもんね(笑)。しかしある意味、特殊な例といえる。そういう良好な関係ではない方々に向けて、例えばコンサルティングとしての目線でお話ししていただくとどうなりますか? 秋元 現場の人たちは将来が見えませんよね。会社をどう動かしていくかなんてことを考えて働けないじゃないですか。そういった現場の視点や意見だけを優先していたら、会社は大きくなりません。僕らの役割は、会社をいかに成長させていくかにあります。その際、経営者の方針をしっかりと理解する。そしてNo.2はそれをしっかり現場に伝えていく。理解させる。確認する。それが大切だと思いますね。 また一方で、よく部下に対して愚痴をいう上司の話を聞くことがあります。「アイツは俺に報告しない」とか「アイツは俺をメシに誘わない」とかですね。常に全員が全員、モノを申すことができるわけではないじゃないですか。上から下りていってあげることが必要なんです。誰でもモノ申すことができる環境をつくる。そして、経営者にもそれをしっかり話す。部下の意見を引き出し、まとめて、社長に伝える。それがNo.2でしょうね。 野口 №.2だからできるしくみづくり。秋元さんがはじめて作ったしくみは「現場力」ですよね。最近ではどういったしくみづくりに取り組んでいらっしゃいますか? 秋元 現場力を強化しようと考えた当時、僕らなりにみようみまねでいろんな勉強をしてしくみを作ったんですね。いくつかポイントがあって、まず大事なのが、フィロソフィ・マネジメントです。理念の徹底です。そして、さらに現場力を徹底させるために、段階的に可視化したんです。 野口 可視化? 秋元 どういう順番で現場力を引きあげるか、段階を設けてわかりやすくしたんです。優秀な人材を育てるために「ホップ・ステップ・ジャンプ・プログラム」というものを作りました。ホップに3段階、ステップに3段階、ジャンプに3段階、合計9段階をひとつひとつクリアしていくシステムです。つまり、今、この店が何をすべき段階にいるのか、目に見えるようにして、その店のスタッフみんなで頑張っていこうというものです。組織がしっかり完成していない店が、人員を削減したり、売り上げをあげるために宣伝したりしても逆効果ですよね。お客様がいらしても満足を与えられなかったらイメージダウンにつながってしまいます。 野口 基準を明確にした、と。 秋元 優先順位を明確にしたということですね。 野口 なるほど。No.2の役割は本当に多岐にわたるものなんですね。ところで、ワンダーテーブルさんは東証二部上場の優良企業ですが、上場企業であるか否かでNo.2の果たす役割は変わってきますか? 秋元 まったく違いますね。株主に対してもそうだし、社員に対しても社会に対しても貢献しなければいけません。No.2というよりは経営陣として責任を果たしていく領域が大きくなります。常に経営者としてプレッシャーを感じながら考えていかなければなりません。上場していなければもう少し気楽な立ち位置でできる。 また、社長を守る、ということもNo.2の重要な仕事です。いろんな外圧に対する盾になる。現場のクレームに関しても、支配人、SV、シニアマネジャーと段階がありますが、会社の最後の処理は自分が対応することになります。 野口 最後に、今後の外食産業における、秋元さんの大局観をうかがってよろしいですか? 秋元 消費がものすごく落ちていますからね。厳しい逆風が吹いているなかで、何ができるかを考えないといけないですね。ただ、ズルだけはしちゃいけないと思います。お客様に満足してもらえる“本物の店”を開発していく。うちは首都圏を中心とした展開なんですが、今後は地方にもそういった店を作り、地元の人々に喜んでもらう。それこそが社会貢献なんだ、というコンセプトを携えています。また、「ローリーズ・ザ・プライムリブ」や「ユニオンスクエアトウキョウ」といった、世界の優れたレストランを日本に紹介していくもうひとつの展開もまた然りです。そうした戦略を採っていかないと、これからは立ち行かないでしょうね。本質的な部分で“本物”を知る外食経営のプロが、人を育て、会社を成長させ、社会的責任を果たす。そして、それを組織の風土としていく。これが僕らの目指すところですね。 野口 なるほど。しっかりとした“本物”とその“しくみ”を作っていかないと生き残れないということですね。今日はありがとうございました。 株式会社ワンダーテーブル |
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