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現場でワーワー言って終わらすダメ行為

社長やマネジメント者が現場に行って、これ見よがしに現場での不具合や問題課題を指摘する事は愚の骨頂である。

やってる者は自分の役割を果たしているつもりであろうが、それは全く無知の独りよがりである。

 

何がダメなのかと言うと、

・言って済ませる=言いっぱなしで、言った側も言われた側もその場限りのその場しのぎで終わってしまう

・当事者間だけの事として終える=他店にも同一、類似事項が生じているかもしれないにも関わらず、共有できない。中間管理者への報告が無ければ、知らずのまま終わってしまう

要は「記録」に変えなければ意味も価値もない。「記録」すれば、言った側も言われた側も振り返れるし、他店や他社とも共有が可能である。

「記録する」という事=「書く事」が面倒くさいから、言って済ませるという安直な行為で済ませ、役割を果たした気になって終えてしまうのである。

 

更に、指摘事項の全てはその場で指摘するのが賢明か正しいか熟考する必要もある。

決して基準やルールを一度も示したことが無い物事を指摘してはならない。指摘内容によっては、基準やルールが存在しないが為に、指摘する人の個人尺度で指摘している事があるかも知れない。

そうなった場合、指摘される側にとってみれば、「社長はこう言うが、マネージャーはこう言う」と、違いを受け止め困惑するばかり。基準やルールの欠落は社長やマネジメント者の責任。

 

違う言い方をすると、指摘事項を発見すれば、それは基準やルールの有無を確認する事にもなり、無い場合は現場で指摘することなく、基準やルールを設けた上で後に指摘する必要がある。勿論、基準やルールは明文化する。

明文化したものは「読んでおけ!」で伝えた気になってはいけない。一つ一つ丁寧に読み合わせながら、内容によっては、何故、その様な基準やルールになったのかを説明し、理解納得を得る必要がある。

 

“面倒くさい”と思う心を社長を筆頭にマネジメント者が抱けば、その皺寄せは現場へと向けられる。

上位者の怠慢が原因で現場には次から次へと“面倒くさい”が吹き溜まり、険悪な空気感が充満する。

険悪な空気感は人の行動に現れ、上位者が「出来ていない!」と指摘し、悪循環に陥る。

 

現場での不具合や問題課題は現場の問題ではなく、社長を筆頭にマネジメント者の能力の問題である。

 

 

 

 

無責任な「任せた!」は“害”しか生まない

マネジメントの要領の一つに「任せる」事があるのは事実だが、これを錯誤していると“任せた側”は「どうなっているんだ!?」と怒りが湧き、“任された側”は「無茶言うよな」と呆れややる気を無くす。

 

そもそも、「任せる」は“任せる側”の権限なので、“任される側”に責任は無い。

分かりやすく言うと、社長やリーダーや店長という上位者が“任せる側”として行う事なので、その人たちに全ての責任がある。

その人たちが

①“任される側”の能力を理解・把握していない

②任せる事の内容を“任せる側”が理解・把握していない

この2つのどちらか、または両方の状態にも関わらず、「任せた!」となるとお互いにとって“害”や“不幸”しか生まない。

 

「任せた!」で“任される側”の「成長の機会を与えている」等と“任せる側”が思うこと自体、大きな錯誤。もし、“任せる側”が自分で対処したり自学するのが面倒くさい、たいへんだと思う事を丸投げで行っているなら、上位者として失格である。

もう一度言う、“任される側”には一切の責任は無く、“任せる側”のみの責任である。

 

“任せる側”が「任せた!」という前に行うべき事は先述①②の真逆である。

ア)“任される側”の性格・能力を把握する

イ)任せる事の内容を“任せる側”が多少なりとも理解・把握する

 

あなたは部下より優れているから上位者であって、あなたが出来ない事、知らない事、考えられない事を部下が出来ると思う事が錯誤である。

悲しいかな、放っておいても向上心高く自学し、あなたが知らない事を出来る部下が居る可能性は中小企業に於いてはゼロと思うべきである。もし、「居る!」と言うなら、あなたはア)が出来ている証拠なので、適切な「任せた!」としている事だろう。

 

どのレベルの店長があなたの言う店長?

「店長によって店の売上は簡単に上がりも下がりもする」と言う言葉を耳にしたことはあるだろうか?

これは事実で、全く同感である。

 

では、この言葉を分解して理解すると、店長の役割が見えてくる。

端的に言うと、「まわす」だけの店長か、「売上や利益を上げる」店長か、の違いである。

 

前者はシフトを組み、商材を発注し、注文が入れば商品をつくり、そして商品を出し下げし、会計してお見送りする。これらの一連のオペレーションを滞りなく、円滑に行う事。

後者は前者に加え、売上=客数×客単価として捉えて、両者またはどちらか一方を上げるための策を“営業外”で考え、そして“営業中”に実行する。

 

組織や会社のレベル感は店長を見ればよくわかる。

店長はおろか、本部員と言われる統括者やSVでさえ、前者能力しかない組織や会社も実在する。

たちが悪いのは、その本部員が前者と後者の間の中途半端な知識しか無い場合、利益を上げるために現場の負荷が掛かることを要求する策のみを講じ実行し、売上を上げる為に安易に値引き・割引のクーポン配布の目先の付け焼刃施策を連発させる。

百歩譲って、店長がこのレベル感であっても仕方がない。しかし、本部員がこの程度であれば、たかが知れている。逆を言うと、本部員と言うならば、後者の様々な具体的方法論を熟知し、失敗も成功も豊富に経験しているべきであろう。

 

前者能力を以て店長と定義するなら、それはそれで良く、それ以上の事を本部員が賄えばいい。後者能力を以て店長とするなら、それ相当の時間を掛けて教え、実行させ、検証させの所謂、“PDCA”サイクルを繰り返す事。

最悪な組織・会社は、店長に前者以上の能力を当然的に求めるも、後者能力の育成環境や機会を与えず、「自分で勉強しろ!」と上司らしいもっともな言葉で、自分の勉強不足や無知を隠ぺいする本部員が存在する。

店の幹部と店に行けば内情が直ぐわかる

私は仕事柄、クライアントの店舗にクライアント社長や幹部と訪問する事が多い。

行けばクライアントの社内事情が透けて見えてくる。

 

予約も予告もせずにいきなりいくと、「いらっしゃいませぇ」と語尾が弱まりながら、驚きも混じり、こおばった表情で出迎える。そして、「どうしたんですか急に?」、「何かあったのですか?」等々、やたらと詮索する質問をしてくる。更に、一般客が居るにも関わらず、我々の席を離れようとせず、周囲に注意を払う事も怠る。挙句、新入アルバイトのご挨拶大会が開始される。

こういった事象が起きる会社は

・現場と本部に距離や溝がある

・現場は疲弊している

・現場に緊張感や張り合いはなくダラけている

・社長筆頭に幹部が偉そうにしている

・現場は本部の悪口・批判が尽きない

等々、読者の想像通りの体質の組織である。

 

一方、真逆組織の現場に行った際に起きる事象は、一般のお客様と何の隔たり無く同等の対応をする(むしろ、一般客を優先する)。よって、先述事項と真逆の現場と本部の関係である。

 

「事件は現場で起きる」の名句通り、店舗を持つ会社なり組織は現場で起きている事実が全てで、その事象がその会社や組織の内情を如実に表している。

社長や幹部が社外の人にどれ程、何をどう言おうが、「現場の事実が全ての事実」である。

 

「どう思う?」「意見が欲しい」が言えないダメリーダー

自分の想いや考えを持つことはリーダーにとって必要不可欠である。

しかし、一方的な主張や思い込みは“裸の王様”、もしくは“マスターベーション”でしかない。

 

一方的に主張したり思い込む場合は大きく2パターンあり、一つは“俺がリーダーだから、俺に従え”という「独裁者」タイプと“俺がリーダーだから、俺がブレてはならぬ”という「自己陶酔」タイプ。

両者とも始末が悪い。

 

リーダーに必要なのは、統率力や物事をまとめる力。

よって、部下たちの想いや考えを全く把握せずして、これを行う事は不可能である。

しかし、先述の両者にはこれが出来ていない。

 

リーダーである自分の想いや考えに「間違いはない」と思い込んでいたり、部下なんぞに俺の想い考えを「意見されたくない」という傲慢な心、部下の想いや考えなど「大したことない」という見下した心。

そういったリーダーとして不適格な心が部下に対して「どう思う?」「意見を聞かせてくれ」と言えなくさせる。

 

こういったリーダーの下に存在する人材はそれに従うその程度の能力、これを辟易する人材はその人の下を去っているだろう。

ここに悪循環が始まり、こういったリーダーが存在してしまう結果になる。

 

部下であれ、他人であれ、自分の考えに対する意見を聞くことは“謙虚な心”があれば素直に聞ける。しかし、聞くに際して「我慢」や「嫌気」を以て臨むのであれば、それが欠落している証拠。

「他人の意見に耳を傾ける」という事は自分が本当に「謙虚」、「素直」かどうかを確認する事。

 

意見を聞くことで相手の考えを知ることが出来る。自分の想い考えを持っているのか、迎合するだけなのか、無関心なのか、等々。

聞いた意見を採用しなければならない訳は無い、聞いて損も無駄も無い。

もし、「無駄だ!」と言うならば、あなたがダメリーダーが証拠に先述通り、大した人材が居ないからそう思うのである。

 

仕事を「こなす」と「蓄える」は大違い

24時間365日は誰にとっても平等に与えられている。

しかし、人によって誤差が生じるのは何か?

 

同じ会社や店で殆ど同じ仕事をしている人が2人いるとして、共に意欲旺盛に仕事するも、1人は“こなす人”、1人は“蓄える人”だとしたら、先に雲泥の差が生じる。

言い換えると、風呂桶にお湯をはっている状態として、両者とも仕事意欲旺盛を勢いよく蛇口からお湯が出ているとして、前者は「栓」を閉めないでいる。後者は「栓」を閉めている。

一見すると、両社は同量のお湯が勢いよく注ぎ込まれているが、結果は違う。

 

前者は仕事が終われば気持ちよく、「お疲れ~!」とキレイサッパリその日を終える。

後者は日々の仕事で学んだことや失敗したこと、悔しかったことを書き留め、気づいたことを調べたり、本を買って学んだり。

前者は「記憶」に頼り、「感覚的」。

後者は「記録」に頼り、「論理的」。

 

私が知る限り、飲食店繁盛店はコツコツ地道に小さなことを“積み重ねる”。

「記録」にすることで、働く仲間と良いことも悪い事も「共有」する。

「記録」になっているから、“過去”を振り返り、「具体的」に何が良かったのか悪かったのか、“先”に活かす。

言った言ってない、伝えた伝えてない、なんて事で信頼関係を損ねたり、無駄な時間を取らぬよう、「記録」する。

季節指数や曜日指数を個人毎に「感覚的」に捉えぬよう、データとして管理し、それを踏まえて販促計画を立てる。

1年は12か月なので、何年も営業しているし、季節も毎年同様に変化するので、昨年のいつ、どんなメニューだったか?どんなフェアやイベントをやったか?全部「記録」している。だから、それが上手くいったのか外れたのかをデータで「記録」しているので、今年はこうしよう!と昨年よりも更に良い考えを出そうとする。

 

あなたは「こなし」て来ましたか?「蓄えて」来ましたか?

「蓄えて」来た、と言うならば、あなたの「蓄え」を人に伝えて示してください。

出来るなら、それを文字にして「可視化」してください。

「蓄え」があるなら、人はあなたを頼り、色々と聞いてくるでしょう。

「蓄え」があるなら、あなた自身も色々な事に対応出来たり、新たなチャレンジをしようと思うでしょう。

部下の返事は大抵カラ返事と思え

「はい!」と返事した、あなたの部下は、あなたの言っている事の半分も理解できていないまま、「はい!」と返事していると思うべきである。

もし、あなたが部下に大して普段から指示・命令が多かったり、部下が自ら提言や意見を述べる事が殆どないなら、部下の「はい!」は“単なる返事”で、「わかりました」の意味は全く含まれていないと言える。

もし、あなたが、部下の心理や能力を的確に把握しており、その上、あなたが話し上手で説明上手と自他共に認められているのであれば、その限りではない。

よって、恐らく殆ど多くのリーダー・マネージャーは「はい!」を鵜呑みにせずにおくべきである。

実際に、あなたが話し伝えたことを確認する意味で部下に質問をしてみるとよい。そうすれば、返ってきた内容が相手が理解した内容なので良くわかる。

 

一番やってはイケないのは、「理解できていないのに返事するな!」である。

「はい!」と返事させたのはあなたである。しかも、無理やり。

 

部下はあなたほど有能ではない。あなたが知っている事を知っている訳ではない。あなたが考えられることを考えられる訳ではない。あなたが経験してきたことを経験している訳ではない。あなたの人脈や交友関係と同様の人間関係がある訳ではない。

もし、社長と部下の間で話すなら、その両者のバックグラウンドの差は歴然なので、話す社長自身が相当話を分かりやすく、且つ、部下が理解しうる言葉で話さなければならない。

 

そうなると、「面倒くさい」、「たいへんだ」、「何で俺が」、「お前がもっと勉強しろ」等々、見事に部下に責任転嫁して“パワハラ”発令である。

部下はあなたを映す鏡。

部下の不出来はあなたの不出来。

常日頃から育ててないから、教えていないから、カラ返事「はい!」を連発する。

上司面して抑え込んでるから、カラ返事「はい!」を連発する。

 

 

 

 

教えていないことは出来る訳がない

「任せたよ!」といって部下に頼むことは上に立つ人にとって重要な事である。

しかし、任された相手が任せる事を出来るかどうかを判断推測せずして「任せたよ!」は大間違い。

 

そもそも、部下はあなたと能力が違う、経験が違う、知識・技術が違う、だから部下なので、あなたが知っている事、出来る事を部下が出来ると思ってはいけない。

あなたは自学自習して今日があるだろうが、それは他よりも秀でた努力・能力を備えていたからそうなったと思うべきである。

表題通り、部下や依頼する相手は「教えていないことは出来る訳がない」のである。

 

いやいや、「自学自習すべきでしょ」、「依頼する事でキッカケを与えれば何とかするでしょ」、「学校じゃないんだから」と言いたいでしょうが、そんな事は起きてもごく一部の人にのみ。

むしろ、あなたが「教える」事を“面倒くさい”、“時間が無い”、“しんどい”と思っているのが本当で、それを体よく「任せた」、「頼んだ」といってるのではないだろうか?

 

「教える」事無しに、部下が指示依頼を対処してくれるなら、あなたは恵まれている、運がいい。そんな希少な部下がいるのだから。逆を言うと、あなたは指示依頼しただけで、あなたは部下を育ててる訳ではない。

それが証拠に、その部下が異動となろうものなら、あなたは強く抵抗するのではないだろうか?何故なら、あなたにとって便利・都合がいいのだから。

 

「自分で勝手に勉強する」人を“プラス人財”と言うならば、「勉強する機会を与えている」にも関わらず、勉強しない人は“マイナス人財”、中小企業に多く存在するのは「自分で勝手に勉強しないけど、勉強機会を与える」と勉強する“プラマイゼロ人財”と認識すべきである。

だから、部下を抱えるあなたが“面倒くさい”等と思わず、「勉強機会を与える」=「教える」事をする必要があるのである。

 

 

 

経営者感覚を持つという事

「経営者感覚を持て!」と言われたり、聞いたことはあるだろうか?

これってどういうことなのか?

物事を鳥瞰・俯瞰・大局観で見る事?

採算を見積もって考える事?

無理・無駄が無いか考える事?

どれも間違いではないが正解でもない。

 

「経営者感覚を持つ」という事は、「一夜にして全財産が没収され、地位も名誉も無くなる事を想像する事」。

要は、多くの中小企業の場合、代表者は会社の借入を個人保証しているので、その金銭的リスクを負うという事。

 

例えるなら、ギャンブルで同額の自分のお金で掛けるのと、他人のお金で掛けるのでは、心理的に同一だろうか、異なるだろうか?

前者が経営者感覚、後者が従業員感覚。

 

自分のお金で掛けるに際し、他人のお金で掛ける時の違いは何だろうか?

それに掛ける事が最も当たる確率が高いのだろうか?と調べたり熟考するのではないだろうか?

全部無くなってしまった時の事を考え、納得いく後悔をしようと真剣に考え、可能な限り全力を尽くすのではないだろうか?

他人に勧められるがままに掛けるのではなく、自分自身の判断で掛けようとするのではないだろうか?

 

あなたの役職名が「取締役」となっているにも関わらず、先述の思考無く、日常的に従事しているなら、あなたは「名ばかり役員」であって、実態は単なる一従業員である。

「経営者の立場にならないとわからない」と言っているあなたは想像力が乏しい。

 

「経営者感覚を持つ」という事は、日々、地道に努力を積み重ね、先に願わぬ結果が起きようとも、それを悔やむことの無い、自分自身が納得できる日々を全力で過ごすという事。

 

 

 

鈍感さやヌケているところがある方がいい

リーダーとなれば人を従えて先頭に立つ、それ故に完全無欠で聖人君子的な像をイメージしがちかも知れない。

名経営者の著書等を読むと、強くこういった印象を受ける。

このイメージが間違えている訳ではなく、この通りになればいいのだが、なかなかどうして、こうなるのは難しいものである。

私が思うのは、ここまでの’The leader’でなくても、歴史上の人物含め、過去にはこのタイプのリーダーがリーダーとして描かれてきて、先頭に立ち、強い統率力を以て“引っ張って”来たに違いない。

 

このタイプのリーダーの「欠点」という言い方を敢えてするならば、「ついて行く人が限られてしまう」、という事。

リーダーは全く悪気も押し付けも無いのだが、ついて行く人が自ら勝手に「自分はダメだ、出来ない」と考えてしまい、脱落ないしは諦めてしまう。

この事象で懸念する事は、ついて行く人が「自己嫌悪」や「挫折感」を味わってしまう事。

リーダーが強すぎるために生じる表裏一体のマイナス効果。

 

私の周囲のリーダーにはこうではないタイプのリーダーが多い。

例えば、常に「心配だ」、「不安だ」、「大丈夫かな?」、「どうなるだろう?」等とネガティブワードを口にして、その周囲がイラつくほど「意思決定」に長時間要するリーダー。

他にも、複数の飲食店経営をしているにも関わらず、現場経験は一切なく、自分で料理を作ったことがなく、唯一、カップラーメンだけなら作れるというリーダー。

等々。明らかに冒頭のタイプのリーダーとは全く異なったリーダーである。

 

こういったリーダーの組織で起きる事は、部下たちがリーダーの弱点を克服すべく、率先して動き、考え、提言する。

大げさに言えば、勝手に部下が育つのだ。

部下たちに肩を担がれ、時には彼らに激励され、引っ張ってもらっている様なリーダー。

 

友人経営者が講話の中で上手にこの異なるリーダー像を表現している。

「少年ジャンプに描かれているリーダー・ヒーロー像は時代によって大きく異なります」、「昭和世代は完全無欠、先頭に立つリーダー・ヒーローが描かれていました、がしかし、平成世代は欠落多数の支えてあげなきゃいけないリーダー・ヒーローが描かれています」。

どちらも、“仲間の友情”、“勇気・愛・正義”、“一つの事を成し遂げる”といったことを描いているのだが、その主人公のキャラクター性が真逆と言っていい。

 

「鶏と卵」の関係が如く、部下の価値観や思考の変化がリーダーを変化させているのか、新たなリーダーの出現にそれを慕う部下が集まるのか?

どちらが「正解」という事は無い。

思う事は、“強い”リーダーであることは必要で、それは“自分に強い”リーダーであって、“他人(部下)に強いリーダーは”時代に求められていない。

意図してもしなくても、完全無欠ではなく、見て見ぬふり、無知さや鈍感さを自覚した上で部下に任せ、人間味を感じるよう間抜けさや少々のチョンボがあるリーダーの方が時代に適している。